刻の振り子 ── 第三章 ギン 2 ──



「ほい、到着」

どさりと投げ出されたのは、固い地面ではなく畳の上だった。
ごろりと寝ころんだ頬に当たる感触がさらりと気持ちがいい。ぼんやりと目を開くと途端に目に入った天井がぐるぐると回り出した。
「う〜…」
目眩の気持ち悪さにギンが声を漏らすと、頭上から一護のくすくす笑う声が聞こえた。
「ああ、悪ぃ、悪ぃ。瞬歩酔いだから大人しくしてればすぐに治るって」
「うう〜…。気持ち悪い…」
「ま、しばらく寝転んどけ」
そう言って一護の足音が遠ざかり、何をしているのかゴトゴトという物音が聞こえてくる。
しばらくしてようやく体に感じる浮遊感が収まり、ギンはそろりと目を開けた。

八畳ほどの和室。天井や柱から年季が入っている事が分かるが、ギンが寝転んでいる畳自体はそう古い物でもなさそうだ。その証拠に、青畳のいい匂いがする。
ギンが普段寝床にと見つけてくるようなあばら屋とは雲泥の差だった。
板張りに直に寝るのは体が痛いので、畳があるというだけで相当な掘り出し物だ。
けれど、そのほとんどは埃まみれの腐ったような畳でしかない。初めて嗅ぐ青畳の匂いにギンはしばらく起き上がる事もせずうっとりと目を閉じた。
「よ、復活したか?」
からりと障子戸を開けて一護が寝転んだままのギンを見下ろした。
その声に、そろりと目を開いて一護を見上げながらギンは情けない声を出した。
「…まだ気持ち悪い」
「嘘つけ」
その様子にカラカラと笑いながら一護が返した。
「ほら、起きろって。起きてこっち来い」
そう言い捨てて一護はさっさと部屋を出て行く。ギンがその後を大人しくついて行くのが当たり前とでも言わんばかりの一護の態度にギンはむっくりと体を起こしてため息を吐く。
「…なんやねんな…もう…」
人を振り回す事は大好きだが、振り回される事には慣れていない。会ったのは今日で二度目だが、どうも一護といると自分のペースが乱される。
だいたい、何でボクが大人しく言うこときかなあかんねんって…。
一護の言葉も行動もまるで読めない。何がしたいのか全然分からない。
今まで、自分の洞察力を疑った事はない。目の前の他人が、何を考えどうしようとしているのかを見極める事は、ギンにとってこの世界を生き抜く術のようなものだった。
そして同時に、相手に自分を読ませない方法を身につけてゆく。微笑みと云うその方法はそうやってギンが生きているうちに自然と身についたものだった。
そこで、はたっとギンは思い返す。
そう、一護に対して自分が笑った事があっただろうかと。
「おーい、ギン!早く来いって!」
そう言って一護がギンを呼ぶ。
「もう…。なんやねんな…」
それに応える謂われはないと思いながらも、ギンは渋々と腰を上げた。

「…なんやの…これ…」
目の前の光景にギンは呆然と呟く。
それに一護はさらりと返した。
「なに、って。風呂」
「風呂て…」
呆然としたままのギンを余所に、湯気の立つ浴槽の天井から時折水滴がしたたり落ちる。
湯船に落ちるぴちょーんという気が抜ける音にギンは、はっと我に返り一護を振り返る。
「なんで風呂…って、あんた何してんのっ!?」
「ん?」
さくさくと、羽織っていた白羽織を脱ぎ捨て、死覇装の腰紐を緩めだした一護に向かって叫ぶ。
そのギンの剣幕を物ともせずに一護はさっさと死覇装を脱ぎ捨てていく。
「なに…って、風呂入んだよ。お前も、ほら、さっさと脱げって」
「ぬ………」
冗談じゃない!と、逃げだそうとしたギンの襟首を捕まえて、一護は暴れるギンを押さえてぱっぱと垢と泥に塗れた着物を脱がせてゆく。
「ちょ…ぎゃあーーーーっ!何すんねん!この、ドすけべっ!」
「何がスケベだ。ガキが色づいてんじゃねえよ。どこもかしこも思いっきり洗ってやっから、とっとと脱げ!」
あっはっはと笑いながら一護がギンの着物を剥ぎ取る。
「いややーーーーっ!ボクを手込めにする気なんやーーーーっ!」
「するか、ボケ!」
ごいんっとギンの頭を叩いて一護が剥いたギンの体を浴槽に投げ込んだ。
「ぐ…、がぼごぼ…っ…!…溺れるわっ!!!」
ざぶんと一度頭まで沈んでから、漸く顔を出したギンがお湯を吐きながら噛み付いた。
それに風呂場の戸に背を預けた一護が、面白そうにゲラゲラと笑った。
「すっげー、見事な溺れっぷりだったな」
腕組みしたままにやりと笑う一護の姿に、ギンは思わず視線を反らせて今度は自ら浴槽に沈み込んだ。
真っ白い襦袢だけを身につけて、すらりと佇む一護の姿。
それに、ぞくりとした色気を感じて思わず下半身が反応しそうになる。
人間で云えば丁度思春期に差し掛かったあたり。性というものを意識し始めたばかりの少年の体の反応は素直だ。

やから、なんであいつに反応するねんな────!
静まれ!落ち着け!自分の体!!!

「ほら、ギン。なに潜ってんだよ。あんまり浸かってると逆上せるぜ?」
頭上から聞こえてきた一護の声に、流石に苦しくなってギンはザバリと湯船から顔を出す。
いつの間にか一護は洗い場に座って、濡らした手ぬぐいにゴシゴシと石けんを擦りつけていた。
その向けられた一護の背を見て、ギンは一瞬目を見開き、思わず視線を反らした。
左肩から右の腰にかけて袈裟懸けに走る深い傷跡───。
刀傷だ…と、そう思った。
ようやく子供から少年へと歩みを進めた自分より少し上の青年期へと差し掛かった身体。
しなやかな肉食獣の様な無駄のない筋肉と健康的な色合いを持つ一護の背中。
その背に走るその大きな傷跡だけが仄かに白く浮き出ている。
ようやく収まり掛けた下半身が思わず反応するくらいに、それは艶めかしく扇情的だった。
男も女も、獣のような欲望が渦巻くこの流魂街では子供とはいえ性の経験は早い。
ギンにとっては特別意味も持たないその行為に、一夜の快楽と寝床や食料が引き替えにされる。
乱暴にされるのも組み敷かれるのも真っ平御免なので、行為の相手には女しか選ばない。
その事に対して罪悪感を覚えた事もなければ、自分から求めた事もない。
見返りがあるから応じるだけのモノ。
ギンにとってセックスとは生きる為のものであり、それ以外に意味などない。
せいぜい自分の見目が他人よりも良かったと言うことに若干の運の良さを感じる程度の感覚でしかなかった。
それが──。なんで男に──一護に、こうまで激しい欲情を感じるのか──。
生まれて初めての感覚に戸惑い焦るギンを余所に、一護がのんびりと湯船に浸かるギンを振り仰いだ。
「ほらよ。いい加減こっち来て体洗え」
そう言ってギンに泡だった手ぬぐいを渡す。
それをぼんやりと受け取って、ギンはむっつりと呟いた。
「…いやや…」
「はぁ?」
「なんでボクがあんたと風呂に入らなあかんねん」
ギンの文句に一護がにやりと笑う。
「なーに恥ずかしがってんだよ。いいからとっととソレ持ってこっち来い」
「いやや、って!」
「もう…仕方ねえなぁ…。男同士で恥ずかしいもなんもねぇだろ」
呆れたように言う一護に、ギンがむくれる。
恥ずかしいというよりも、自分の中に沸き起こった欲望に戸惑いが隠せないのだ。
一護にとってはまだまだ子供でしかない自分が、今この瞬間、一護を組み敷きたいと思っていると知ったら彼はどうするのだろう。
──危機感なさすぎや……。
まさか自分に欲望の対象にされているなど夢にも思わないだろう一護に、ギンはそっとため息をつく。けれど、それが今この場で叶わない事くらいギンにもよくわかっていた。
一護は、強い。
それが死神の中でどれほどの実力を持つのかはギンにはわからない。
それでも今まで自分が見た死神の中では、圧倒的に強いという事だけはギンにもわかる。
もし…。もし、自分が死神として鍛錬を積み、一護の側に居たなら──。
自分は彼を超える事ができるのだろうか──。
超える事はできないまでも、彼の側に佇む事はできるのだろうか──。
一護の呼びかけを無視してつらつらと自分の考えに浸っていたギンに再び一護の声が掛かった。

漸く収まってきたとはいえ、いつまた反応するかも分からない身体に、ギンは一護の呼びかけを無視するように湯船に背を預ける。だが、普段温かいお湯に入り慣れないギンの体は、次第にそれに絶えきれずみるみる内に火照ってきた。
このまま意地を張り続ければこの場で倒れてしまうのは必須だ。
さすがにそんな情けない姿を見せるのは嫌だ。
仕方なくギンは湯船から出る事を選んだ。
「……あっち向いててや…」
「…ったく、何が恥ずかしいんだか…」
ぶつぶつ言いながらも一護はギンに背を向ける。その隙にするりと浴槽から出ると、ギンは用意されていた椅子に一護から背を向ける形で腰掛けた。
ゴシゴシと、無言で体を擦るギンの背に、いきなりぴとんと何かが触れた。
「ぎゃっ!!!!」
普段ではあり得ないくらい驚いた声を上げて、ギンが思い切り振り返ると、今のギンの反応に目を丸くした一護と目が合った。
「…なんて声出してんだよ…」
吃驚した、と言いながら一護は逃げようとしたギンの肩をしっかり押さえて背中に手ぬぐいを当てた。
「なにすんのん!」
「いいから、背中洗ってやるよ」
「余計なお世話や!」
「いいから。大人しく座ってろって」
一護から離れようと藻掻くが、どこにそんな力があるのか、肩を上から押さえつける一護の手にギンの体が動かなくなる。
「…あんまり暴れると縛道かけるぜ」
楽しそうに言う一護にギンがギリっと歯ぎしりをする。
「こんな事に使うてええん」
「いいの、いいの」
そう言いながら、ゴシゴシとギンの背を擦る一護に、ギンは仕方なく力を抜いた。
もう、好きなようにすればいいと投げやりな気分になる。
一通り洗い終えて、泡塗れの体をお湯で流すと、一護はそのままギンの頭からお湯を掛けた。
「ぎゃっ!」
「じっとしてろ」
そう言って今度は楽しそうにギンの髪を洗い出した。
脂塗れの髪には中々洗髪剤が入っていかない。何度か洗って漸く本来のしっとりとした髪になると、一護は仕上げだというように乾いた布でギンの頭をゴシゴシと拭いた。
「じゃあ、俺は先に出てるから、ちゃんと流してこいよ?」
そう言い捨てて一護はざっとお湯を被るとすたすたと浴室を出て行った。
呆然としながらも、体にさっとお湯を掛けてギンはからりと風呂の戸を開ける。
そこには既に一護の姿はなく、ギンの着ていた着物も見つからなかった。
ふと足下の籠を見ると、着物が畳んである。これを着ろと言うことかと遠慮なく袖を通す。新品ではないけれど、きちんと洗濯された綺麗な着物だった。いい感じに着古された感が肌に気持ちいい。
廊下を伝って先程の部屋へと戻ると、丸いちゃぶ台の上に食事が用意されていた。
「ほら、腹減ってるだろ、食え」
一護の言葉にギンは素直に腰を下ろして目の前の箸を手に取る。
どういう思惑かは知らないが、食える時に食えというのが信条だ。
早速手を付けようとしたギンに、一護の声が飛ぶ。
「いただきます、くらい言え」
「…イタダキマス」
逆らう事もせず素直にそう言って、ギンは取り敢えず目の前の食事をがっついた。


出された食事を全て平らげて、用意されていたお櫃の中身まで全て空っぽにしてしまうと、漸く人心地が付いたようにギンは湯飲みのお茶を飲み干した。
部屋に面した廊下との反対には小さな庭に面した縁側がある。ギンの食事の後片付けをしている一護に一人部屋に残されたギンは、そろりと縁側へと足を運んだ。
磨き込んだ板張りにぺたりと腰を下ろす。目の前の狭い庭の奥は竹林になっていた。
いつの間にかすっかり日が落ちて、どこからともなく虫の音が聞こえてくる。
「なんだ、そっちに居たのかよ」
ほらよ、と一護がギンの横に座りながら湯飲みを置く。そうして自分も美味そうに茶を啜った。
「…ここ、何処なん…?」
ぼんやりと夜空を眺めながらギンが問いかけた。
世の中から切り取られたような静かな空間。
僅かに虫の音色だけは聞こえるけれども、僅かな魂魄の気配すら感じない。
ここが瀞霊廷なのか、それともまだ流魂街なのか、それすらも分からない。
何処かと聞きながらも、ギンは既にどこでもいいような気分にもなっていた。
「ああ…。まだ流魂街だよ、ここは。場所、覚えたか?」
「覚えてる訳あれへんやろ。無茶言わんといて…」
いきなり肩に担がれて無理矢理瞬歩とやらを使われて連れてこられたのだ。どこをどう移動したかなど覚えている訳はない。相変わらず無茶苦茶だとギンが言えば一護はくすりと笑った。
「お前が分かるように俺の霊圧残しといてやるよ。…お前だけに分かるようにな。
ここは…結界張ってあるから他の奴は入り込めない。ま、好きな時に好きなように使え。そして、
たまにはちゃんと風呂入れ」
一護の言いぐさにギンはムッと頬を膨らませる。
「…失礼な…。ボクは基本綺麗好きやの。体くらいたまにはちゃんと洗うとる」
「風呂でか?」
「…川」
風呂など贅沢なものがある訳がない。けれど、ちゃんと水がある所ではきちんと水浴びくらいはする。
ムッと頬を膨らませたギンの髪に一護の手が伸びた。そしてしなやかな手つきで何度かギンの髪を梳く。
「やっぱり思った通り、絹糸みたいだな。お前の髪」
さらさらとギンの髪の感触を楽しむように一護がギンの髪を撫でた。そのたびにふわりと爽やかな若竹のような香りが辺りに漂う。
「せっかく綺麗な髪質してんだから、たまには手入れしてやれ」
「…そんな余裕ない、ちゅうねん」
一護の手から逃げるようにギンが体を捩る。見上げた先には目にも鮮やかな橙の髪。
普段は好き勝手あちこち跳ねまわってはいるが、風呂上がりの水分を含み、すとんと降りた髪は見た目よりも柔らかそうだと思った。
「だいたい…瞬歩言うん使うて来たんやろ。あんたはともかくボクには辿りつけんて」
そう切り返すと一護はふっと笑みを零す。
「俺が教えてやるよ。お前ならすぐできるようになるさ」
そう言って一護は湯飲みに口を付ける。

そもそも一体なぜ、一護はこうも自分に構うのか。
単なる気まぐれに構われても、嬉しくもなんともない。
気まぐれなら構わんといて…と言いかけて、ギンははっと思い留まる。
その台詞がまるで拗ねているように思えたからだ。
それに思い当たって、ギンはその思いを振り切るようにまったく別の事を口に出した。
「結界張ってるって…なんで?」
ギンの疑問に一護は悪戯っぽく返す。
「ああ…ここは俺の隠れ家だから」
「隠れ家…?」
瀞霊廷に住む死神。当然そこに家があるだろうに、なぜわざわざこの流魂街に家があるのか。
別宅がいるならもっと安全な場所に建てればいいだろうに。
それに、一護は視線を虚空へと向ける。
「そ、悪巧み用の」
続く言葉にギンは思わず一護を凝視する。

まっすぐに空を見つめる一護の横顔。いっそ無邪気に「悪巧み」と言い放ったその顔は、言葉の調子とは裏腹にふざけても、笑ってもいなかった。
どこか遠くを見つめるその視線。その視線の先に映る光景に一体何を見ているのか。
ここではない、どこかを見つめるその先に、一護が思い描く世界がなんなのか──。
ふと。唐突に、それを見てみたいとギンは思った。
一護は──きっと、見た目通りの人間なんかではない。
明るくて、人懐っこくて、時折子供のような顔をするけれど。
怒ったり笑ったり、くるくると面白いくらいに表情が変わるけれど。
一護の表情に昏い影など微塵もないけれど──。
「ボクにも…見れるやろか…」
ぽつりと、思う間もなく口に出していた。
一護にとっては、なんの脈略もない台詞。ほとんど独り言に近いそれを、一護は何のことかと聞き返す事はしなかった。

そして、一護はしばらく沈黙した後静かに言った。
「ギン──お前やっぱり死神になれよ…」
その言葉に、ギンはゆるく首を振った。
「…いやや」
「なんで」
「…向いてへん…」
「向いてるよ、お前」
「違う…そうやのうて…」
一護の言葉にもう一度ふるふると首を振る。
「ああいう…組織みたいのってボクには向いてへん…。息詰まってまう…」
死神の仕事がどういうものかはよく知らなかったが、一つの組織に組み込まれ、誰かに命令され、
そして何かを護る為に自分の命を掛けるだなんて真っ平ごめんだと思う。
かと言って、こんな生活から抜け出すにはそれが一番手っ取り早い…というかそれしか方法がないと言う事もよく分かっている。
こんな地獄のような場所で、日々神経を尖らせながら暮らしていきたいのかと聞かれるとそれも嫌だと思うけれど、死神になりたいのかと聞かれると、そんなものになんてなりたくはないと思ってしまう。
「死神なんか…好きやない…」
静かにギンの言葉を聞いていた一護が、その台詞にくすりと笑う。
「…気が合うな。…俺もだよ」
そう言ってにっこりと笑う一護にギンは呆れたように呟いた。
「死神のくせに何言うてるん…」
「死神だって死神が嫌いなやつだっているさ」
「好きでなったくせに何言うてんの」
呆れたように返すギンに、一護はふっと自嘲するような笑みを浮かべた。
「それしか選択肢がなかったんだよ…。死神になるか…死ぬか…どっちか」
「え…」
ふと遠い昔を思い出すように目を細めた一護にギンは言葉を失った。

「みんながみんな、なりたくてなってる訳じゃないって事だよ。死神って一口で言っても皆それぞれだ。ご立派な大義を掲げてる奴もいれば、生活の為になった奴もいる。…流魂街出身の奴らなんて、死神にでもならなきゃまともな人生なんて送れないって思ってなった奴がほとんどだ。でも俺は、それでいいってそう思ってる」
「────」
「きっかけなんて何だっていいんだよ。ただな、ギン──、お前はここに居るべきじゃない」
「そんなの……」
他人から決められる事じゃないと言おうとして、ギンは口を噤んだ。
分かっている。いつまでもこうしていられる訳じゃない。
けれど、一護の言葉に素直に頷くにはどうしても抵抗があるのだ。
「まあ、聞けって。お前が死神が嫌いだって言うなら、それでいい。でもな、人には居るべき場所ってのがあるんだ。お前の霊圧はここに居るには高過ぎる。そしてそれは、それだけでいらない摩擦を引き起こす。…それはお前が一番良く分かってるはずだ」
「…ボクが居るべき場所言うんが瀞霊廷や言うの…?」
一護の言葉にギンがため息を落とす。
貴族と──そして死神だけが住まう事を許された場所。
飢える事も、日々死に怯える事もない安全な場所。
確かにそれは楽な生活なのだろう。けれど、そんな安穏な生活を本当に自分が望んでいるかと問えば、それは恐らく違うのだと思う。
ため息と共に呟いたギンの言葉に一護は少しの間沈黙を落とし、やがてきっぱりと言い切った。
「違う」
その否定の意味が分からずに、ギンが一護を凝視する。
「どういう…コト…?」
訳が分からずに問いかけると一護はゆっくりとギンに視線を合わせた。
「俺んとこ来な、ギン。この世界に何の未練もないなら」
「あんたん…トコ?」

「そうだ。俺は…いずれこの世界を潰すから」

「なんやて……?」


一護の言葉にギンが思わず目を見開く。その様子に一護はくすりと笑って続けた。
「だから、俺は死神なんか嫌いだって言ったろ?死神も…護廷も…この尸魂界も…。存在する意味なんてなにもない。俺が今護廷で隊長なんてやってるのは、いずれこの世界を潰す為だ」
「そんなこと……」
本当に出来るのかと、素直にそう思う。
いくら一護が強かろうが、今あるこの世界を潰すというのは生半可な事ではないくらい、何の知識もない自分にだって分かる。
でも───。
先程垣間見た一護の顔。それが全てを物語っていた。
恐らく、一護はその為に計画を練り上げ、着実に準備してきたのだろう。──ずっと、昔から──。
そして──、きっといつの日か、それは現実になるのだ。
ギンが見てみたいと思った、一護が思い描く世界──。

「お前にも…見せてやるよ、ギン。俺の──側で」
崩れゆくこの世界を。
見たいって言ったろ?
そう言って、一護が笑う。


「──見たい」
一護の言葉に、呟くようにギンが頷いた。
見てみたいと、思った。
死神になんてなりたくはない。
崩れゆく世界にも興味はない。
ただ、それを静かに見つめる一護を見てみたいと思った。
一護の隣で。──共に立ちながら。

「───なら、」
一旦言葉を切って、一護はギンに向き直る。
「お前は、俺の副官になれ」
──それが。
一護がギンに下した、初めての命だった。
「お前が、俺の見る世界を共に見たいと望むなら。俺の背中を預けられる程に強くなれ。
たった今からお前に戻る道はない。お前の命は俺のものだ。──ギン」
「──分かった」
こくりと、頷いた。
頷くことに、微塵の迷いもなかった。
ついさっきまで、誰にも縛られたくはないと思っていた自分が嘘のように。
当然のようにギンに命ずる一護を、まるで昔からそうされる事が当たり前のようにギンは受け入れる。
ほんのわずかな間に起こった心の変化。
けれど、不思議と気持ちは落ち着いていた。
今までささくれ立っていた気持ちが嘘のように凪いでいくのを感じる。
そして、唐突に思った。
ああ…、自分は一護の事が好きだったのだと。
初めて会ったあの日から。ずっと気になっていたのはそうだったのだと。
自分でも知らないうちに、恋していたのだ一護に。
運命なんて言葉に縋る気はないけれど。
でもきっと、自分の腕は──この力は、一護を守る為にあるのだと、今ギンはそう確信していた。


「んじゃあ、まず、お前その言葉使い直せよ?俺の部下の前で、俺に『アンタ』なんて言ったら、一発で殺られるぜ?お前」
「部下?」
「そ。お前と同じ、俺個人のな。その内会わせてやるよ」
「…ええわ別に…。──興味ない」
分かってはいたけれど。
本気で尸魂界を潰す気なら、腹心の部下だってもちろん居るだろうという事くらい。
だが、自分以外にも一護に付き従う人間が居るのは…やっぱり面白くないとギンは口を尖らせた。
「……じゃあ、『一護ちゃん』」
「はぁ!?」
ムっとした気分のまま、ふと思いついた呼び名を口にする。
それに対する一護の反応に、ちょっと溜飲が下がる気がして、ギンはにっこりと笑って言った。
「もう、決めた。これから一護ちゃんは、『一護ちゃん』や。もう変更きかへん。そう呼ぶ。
ずーーーーーっと」
「……お前…思いっきりナメてるだろ…」
嫌そうに眉間の皺を濃くする一護に、ギンは益々面白そうに口角を上げた。
「ナメてへんもん。ええやん、可愛いし。なんやの、ボクから『黒崎さん』とか『一護さん』とか…『様』とかで呼ばれたいん?一護ちゃん?」
その言葉に、一護は一瞬考えるような表情を乗せて次の瞬間諦めたように肩を落とした。
「まぁ…それもなんだかな…。あー、もういい、好きに呼べ。…でも、人前ではちゃんと黒崎隊長って言えよな」
「了解や。一護ちゃん」
そう言ってにっこり笑うギンに、「お前初めて笑ったな」と一護は楽しそうに微笑んだ。



第三章 end
   



※はぁ…。漸くギンが自覚しましたよっと。本当に仔ギン、まったく思う通りに
動いてくれずに四苦八苦でした。
いやー、でもこれ究極の年下攻!ふふふ、でも思い通りにはさせなくてよ!ギン!