「おい、一護!なんや、あのクソ餓鬼っ!!」
三番隊隊首室に入るなり、平子は額に青筋を立てたまま、そうがなり立てた。
「あ?餓鬼?」
平子の剣幕など何処吹く風の一護は、書類から僅かに目を上げて何のことだと言うように眉間に皺を寄せる。
朝っぱらからもの凄い剣幕で扉をドンドンと叩き、入室を許す間もなく勝手に入り込んできた平子は、そう言うが早いかこれまた勝手に隊首室のソファにどっかりと腰を下ろした。
まったく、コイツが来ると仕事になんかなりゃしない…とウンザリするのは毎回の事だが、正直今朝の平子のこの行動は昨日の今日で一護にはなんとなく予想は付いていた。
「誰だよ、餓鬼って」
当然、それが誰の事を指すのか一護は知っている。知りすぎるほどに。
だが、敢えてそこは知らないふりで平子に尋ねると、途端に苦虫を噛み潰したような顔で一護に視線を向けてきた。
「今度ウチに入った新人や。市丸。知ってんねやろ、お前」
「市丸…?──ああ、霊術院の子か。手合わせしたぜ、一度。…それがどうかしたのか?」
「どう…って…。ああーーーーッ!思い出すだけでもハラ立つわ!!」
キィーーーっと髪を掻きむしる勢いでそう怒鳴り上げる平子に、一護は呆れたように目を眇めた。
いっそそのままハゲでも作ればいいのにと思う。
「……あのな、平子隊長…。お前が腹立てるのは勝手だが、なんでそれを俺が聞かなきゃなんねぇんだ…?」
そんな事は余所でやれと冷たく言い放つ一護に、平子は益々口を尖らせた。
何が何でもここで愚痴るまで帰らないらしい。
「どうもこうもあらへんわ。ったく、藍染の奴、なんであないなクソ餓鬼入れよったんやっ!」
…つくづく色んな奴から『クソガキ』呼ばわりされる奴だな…と思いながら、一護は諦めて手元の書類を机に戻した。
ここでちゃんと相手をしないと、今日一日貼り付く事は間違いない。
「平子…。はっきり言って俺、状況まったく分かんねえんだけど…」
そう言って誘い水を向ける一護に、漸く聞く気になった今を逃すものかと、平子がくわっと目を見開いた。
「昨日入隊式やったやろ」
「ああ。んで?」
「ウチに入って来よったんや、その餓鬼が」
「うん。…それで?」
「でな、式典終わった後、隊首室で入隊の顔合わせあるやろ」
「…あるな」
「藍染から、今度入る新人で一人どえらいの居るいうから、どんな奴かと思うたんや」
「あー…。確かに実力は申し分ねえんじゃねえの?俺も推薦しようかと思ったくらいだし」
…それは真っ赤な嘘だ。
だがギンの実力は、一護が認める処だ。席順は今のところ五席らしいが、早々に上を抜き去って三席にはすぐ上がってくるだろう。
「でもウチは今んとこ人は足りてるしな。人員確保なら五番隊の方が優先だろうから、藍染に推薦枠譲ったんだよあの時」
「譲られても嬉しなかったやろ、あの餓鬼は」
ケッと平子が吐き捨てる。それにいい加減前置きが長いと、一護は先を促した。
「…だから…。なんでお前が俺のトコに文句言いに来てんだよ。聞いてやるっつってんだから、とっとと本題に入れ!時間のムダだ」
まあ、言われなくとも想像は付く。
…というより、その話はすでに昨日藍染から聞いて知っていた。
「俺かて新人にはちゃーんと優しい隊長やねんで!?入隊初日くらいは!」
「…そこは威張るとこなのか…」
「なのに…あんガキゃあ調子に乗りよって……。『黒崎隊長以外、隊長と呼べる人なんかおらへん』言いやがったんやっっっ!!!」
昨夜藍染から、そして今、平子から聞いた事の顛末はこうだ。
護廷全体での入隊式典の後、新人隊士は一ヶ所に集められ、それぞれ配属の隊への任官証が渡される。
その後各隊毎の入隊儀式があり、それで新人は晴れて隊士となる訳だが、大体においてその後隊首室で、隊長・副隊長から有難い訓辞を賜る…というのが、護廷に於ける入隊式の流れだ。
平子率いる五番隊も多分に漏れずそうして新たに入隊した隊士を迎え入れた訳だが…、その隊首室で早くもギンはやらかしたらしい。
今期五番隊に迎え入れた新人は十名ほど。昨年虚討伐に於いて多大な被害を被った五番隊は、その後の調整人事で各隊からの人員移動に寄って一応は隊として納まりがついたものの、未だ隊の立て直しの最中といった処だった。
その中で、新人といえども天才の呼び声が高かったギンが推薦枠としてこの五番隊に…しかも入隊早々五席という席順で入ったというのは、五番隊からしてみれば久しぶりに明るいニュースだったのだろう。
三席とはいえ、一護の信頼が厚かった藍染が移動で副官となり、実力も才能も申し分ないというギンが入隊した事によって、漸く欠けていた穴が埋まる勢いだったのだ。きっと。
なのに……。
『お前が市丸やな。話は藍染から聞いてるで。ま、席次は今んとこ五席やけど、遠慮はいらへん。うちは実力主義やから力あったらすぐにでも上げたるから頑張って精進しや』
そう言って歓迎の意を表した平子に、こともあろうにギンは、にっこりとした笑顔を貼り付けたままこう言い放ったのだ。
『…なしてボクが五番隊なんですやろか…。いやもう…ありえへんわ。異動さして下さい、今すぐ』
『…は?何言うてんねん、お前』
『やから、こんなトコ用なんかない言うてるんですわ。ボクが隊長や思うんも…隊長と呼びたいんも、黒崎隊長以外ありえへん言うてるんです』
『はぁ!?なんやて!?』
『…やから!さっさ異動手続き取って下さい。黒崎隊長以外、ボクの隊長は居らへんねやっ!!』
「ホンマ腹立つわ、あの餓鬼ッ!!」
「ア────ッハッハッハッハッハッ!」
「笑い事やあれへんっっっ!!」
「アッハッハッハッハッ…!いや、悪い…。いや…、でも、チョーうけるっ!あははははっ!」
涙を流さんばかりにゲラゲラと笑い転げる一護に、平子が歯ぎしりする。
「お前…っ!笑い事やあらへん!俺の立場になって考えてみぃっ!!」
「いや……悪い…。あっはっはっはっは…!うん、ごめん…。でも…すっげー度胸だな、そいつ…!」
入隊早々、新人から隊長と呼びたくないと宣言された隊長がどこにいるというのか。
いや、居た、目の前に。
昨夜藍染からその話を聞いた時も、怒るより呆れるよりも先に吹き出してしまったのだが、改めて聞いてもやっぱり笑える。
ギンの性格も、思いもすべて分かっているだけに、その内何かやらかすのではないかと思ってはいたが、まさか入隊当日にやるとは思わなかった。
しかも、自隊の隊長に向かって……。
「───……ぶっ……」
「一護ッ!」
一旦収まった笑いが、平子の顔を見て、またぶり返す。
「ああ…、悪い!いや、マジ、済まねえ…。でも…、胆が座ってるというか…くそ度胸というか…。面白いな、その新人」
「オモロイ所やないで。まったく…。あの餓鬼の憧れの存在らしいで、お前」
一通り怒鳴り散らして大分気が晴れたのか、ようやく平子にいつもの調子が戻ってくる。
「そりゃ光栄だな。でも、だからってお前に文句言われる筋合いねえよ、俺は。八つ当たりすんな」
「オマエ以外誰に当たれ言うんや。こんな話、余所でできるか!」
「でもそれ、たぶん…その場に居た新人からもう余所に漏れてると思うぜ?」
「…やろなあ…」
平子にとって痛い現実を容赦なく突きつけると、珍しくがっくりと肩を落とす。
別にギンから言われた言葉に堪えている訳ではなく、他の隊長格からのいい酒のツマミにされるのが面白くないのだろう。
まだ学生気分が抜けていない新人に、自隊の隊長の面子がどうこうという考えなどまだ無いだろう。
目撃した新人達はきっと、共に配属された同期に面白おかしく伝えたに違いない。
そして、日を追う毎に尾ヒレが付きまくった挙げ句、隊長格の耳に入る事になるのだ。
確かに笑える話ではあるが、同じ隊長格としてはさすがに同情を禁じ得ない。
「……なあ、今からお前んトコ行ってもいいか?」
「──あ?別にええけど…。……なんや?」
一護の突然の申し出に怪訝そうな顔をしながら平子が頷く。
「ん?…ちょっとな……」
「あ、オイ、一護!」
それには答えず一護はすくっと立ち上がり、表にいた隊士に出向く旨を告げると、そのままスタスタと五番隊舎へ向かって歩き出した。
「…よ!ジャマするぜ」
五番隊主室の扉を開けると、藍染がすぐに手元の書類から視線を上げた。
それに軽く手を挙げ、一護は挨拶もそこそこに話を切り出した。
「悪ぃな、仕事中に。ちょっと聞きたいんだが、今新人ってどうしてる?」
ここに着く道すがら平子に聞いた話では、新人教育は藍染に全て一任しているという事だった。
まあそうだろうなと思う。自隊の三席だった頃から藍染は優秀な教育者として他隊でも有名だった。
「今の時間は確か四席に付いて隊舎を回っているはずです。もう少しすれば一旦此処に顔を出しますが…。お急ぎなら連絡を取りましょうか?」
手元の懐中時計を見ながら藍染が卒なく答える。
それに一護は「悪い、そうしてくれるか?」と頷いた。
一体何だ?と、藍染も平子も首を傾げる。余程の事が無い限り、一護は自分が待つ事はしても、他の者の業務を妨げて自身の用を優先させる事などまずない。
怪訝に思いながらも、藍染は廊下に居た部下にテキパキと指示を出し、平子は平子でそのままソファに座り込んで目を瞑った一護に問う事もできずに深くため息を吐くと、自分も椅子にどっかりと座り込んだ。
しばらくしてバタバタという足音と「失礼します!」という声と共に扉が開く。
四席に連れられて次々と中に入ってきた新人隊士は、そこに三番隊長の姿を見つけ、一様にピンと背筋を伸ばした。
新人が行儀良く一列に揃うのを待って、一護は席を立ち新人の前に立つ。
そして、背後の平子を振り返って伺いを立てた。
「平子隊長。いいか?」
「…ええよ。好きにしぃ」
「ああ。…じゃ、遠慮無く」
そう確認して再び新人に向き直る。
自隊の隊長以外が他隊の隊士に直接もの申すのは、たとえどんな些細な事でもあまり歓迎されるべき事ではない。
広い意味で言えば、護廷の隊士は護廷に属する財産なのだが、実際は隊毎にそれぞれ考え方も違うし、育て方も違う。だから、他隊の者には口出しはしないというのが、今では暗黙のルールとなっている。
それ故にこうして一護が他隊の…それも入隊したばかりの新人に対し、一言言うというのは護廷では結構異例の事だった。
平子から了解を得て、一護は改めてぐるりと新人に視線を向ける。
そして、凛と響き渡る声で言った。
「みんな悪いな、仕事中に。昨日式典で挨拶したから覚えてると思うけど…。三番隊長の黒崎だ」
緊張の面持ちで居並ぶ新人隊士に、一護はにっこりと笑って声を掛ける。
それに皆礼儀正しく一礼するのに、一護は笑顔で頷きながらその中の一人に一旦視線を止めた。
そのまますぐに視線を外すと周りを見回して、一護は今までの笑顔を消してゆっくりと口を開いた。
「まずはみんな、入隊おめでとう。これから大変だろうけど、ここは頑張ればちゃんと自分の力を認めて貰える場所だ。最初は覚える事は山ほどあるだろうけど、少しずつでいい、確実に自分の物にしていけ。いずれそれが、お前達の財産になる」
「──はい!」
浪々と響く一護の言葉に、皆緊張した面持ちで行儀よく返事を返す。
それに丁寧に頷きながら、一護が続けた。
「その内それぞれ、自分の得意不得意がある事がわかってくると思う。だがそれまでは、与えられる仕事を精一杯こなせ。お前達の良さはちゃんと上が見てる。だから、最初はどんな仕事にも最善を尽くせ。そのうち自分がどうなりたいか…何が向いているのか分かるようになる。人にはそれぞれ個性があるように、得意分野もそれぞれだ。だから、一つが劣ると言って自分を卑下することだけはするな。いいな?」
「はい!」
新人が入るたびに伝えてきた一護の言葉を一通り伝えると、一護はそれで用は済んだとばかりに再びにっこりと笑った。
それに、一護以外のこの場の者全てが内心首を傾げていた。
確かにありがたい訓辞には違いないが、その為に今他隊の新人を集めたのかと、それっきり口を閉ざした一護にみなの疑問符が沸いた頃──。
じっと押し黙っていた一護の視線が再び動き、一人の新人にだけその視線が向けられた。
「──市丸」
その視線を預けた相手に向かって声を掛ける。
それにギンは、ピンっと背筋を伸ばしていかにも新人隊士ですという面持ちで「はい!」と元気よく返事を返した。
「こっちに」
そう言って一護はギンを手招く。
そして、誰もが目を細めるような温かな笑みでギンに声を掛けた。
「…久しぶりだな、市丸」
それにギンは、礼儀正しく一護に向かってぺこりと頭を下げた。
「お久しぶりです、黒崎隊長。覚えてもろうてて光栄です」
「ああ。まずは入隊おめでとう。五席なんだってな。これから頑張れよ?」
そう祝いと労いの言葉を掛けると、ギンは元気よく「はい!」と頷いた。
それを笑顔で見返しながら、一護は僅かに苦笑するように言った。
「平子隊長から聞いたぜ。俺を目標にしてくれてるって」
その言葉に、ギンの裡に僅かな緊張が走った。
そんな事は今この場で言わずとも、既に解りきっている事──。
昨日の隊主室での顛末は、きっとそこの藍染や平子から聞いているに違いない。
もしかして説教か?とも思うが、それなら昨日の内に何か一言あるだろうとギンは内心首を傾げた。
だが、今この場でそれを聞く訳にもいかず、ギンは憧れの隊長を目前にした新人隊士の顔で、目の前の一護を見上げてしっかりと頷いた。
「はい。あん時、手合わせしてもろうた時から黒崎隊長はボクの憧れで目標とするお人なんです。…そん前も噂は色々聞いてましたけど、実際会うて、手合わせしてもろうて、噂以上やって思いました。ホンマ嬉しかったです!」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
霊術院に於ける一護の人気は、それはもう絶大だ。
あの特務でさえ手を焼くと言われている大虚を一人で退けただの、自身の危険も顧みず瀕死の隊士を助けて戦っただの…それこそ英雄談には事欠かない。
実際、一護に憧れて死神を目指す者も多い。
それだけに、こうした新人からの崇拝ともいえる賛辞は一護にとっては特に珍しい事ではなかった。
「…そうか……」
それににっこりと笑う一護の笑顔は、それだけでは邪気も含みもまったく無いように見えたのだが…。
その笑顔の奥に僅かな不穏を感じた平子と藍染が同時に『マズイ』と思い、一瞬だけ遅れて、ギンがそれに気づいた瞬間──。
目にも止まらぬ早さでギンの頬に一護の張り手が飛び、小柄なギンの身体はそのまま吹っ飛ばされ壁に激突していた。
「──一護───ッ!?」
「黒崎隊長────っ!?」
平子と藍染が同時に叫ぶ。
恐らく、今のこの状態を視覚で捉えられたのはこの場ではこの二人だけだっただろう。
後の者は、あまりにも一瞬の出来事で何が起こったのかさえ分かってはいなかった。
隊主室の壁に叩き付けられ、ぐったりと横たわるギンの姿に、最初は皆呆然とその有様を見ていた。
「い…市丸…っ!?」
ゴボッと口から血を吐き出しながら、ヨロヨロと身体を起こしたギンに、漸く気を取り直した四席が慌てて駆け寄った。
「──待て!」
それを素早く見咎めた一護から、鋭い声が飛ぶ。
新人の様子も心配ながら、一護からの制止の声に四席はギンに手を伸ばすかどうか一護とギンを交互に見ながら助けを求めるように平子に視線を移した。
それに平子は無情にも首を振る。
その隊長命令にギンの様子を心配しながらも足を止めた四席に、平子は下がっていろと言うように顎をしゃくった。
スッと。音もなく一護が倒れ込んだギンに近づく。
間に立つ四席を視線で脇にどけて、一護はゴホゴホと苦し気な息を吐くギンを静かに見下ろした。
「…何で殴られたか解ってるか?」
静かにそう告げる一護に、ギンは俯いたまま、ゴフッとまだ咳き込んでいた。
「昨日…平子に言ったそうだな…?『隊長と呼びたくない』って。お前、自分が何言ったか解ってソレ言ってんのか?」
淡々と言う一護は、背を向けて表情が見えないにも関わらず、一気にこの場の空気が凍り付くような冷たい声色をしていた。
長年の付き合いのある平子や藍染でさえ怯みそうなその声色に、免疫の無い新人はただ顔を青ざめて事の成り行きを見守っている。
静かな室内に響く一護の声は、決して大きいとは言えなかったが、この場の空気すら凍り付かせる程の絶対的な威厳を湛えていた。
「……今すぐ、出て行け」
冷たくギンを見据えたまま一護が告げる。
それに漸く口から流れ出る血を拭ったギンが、一護を振り仰いだ。
絡まる視線と視線。
昨夜、互いの熱に溺れた姿などそこには一欠片も残ってはいない。
護廷の「戦神」と謳われる隊長と、単なる新人隊士。
今この場に居る二人は、それ以外の何者でもなかった。
「…黒崎…隊長……」
絞り出すように一護を呼ぶギンの声に、一護はただ無表情で見下ろす。
背筋がゾッと凍り付くような冷たい瞳───。
それを真っ向から受け止めて、ギンはグッと唇を引き結んだ。
「……お前が、俺の事をそういう風に見てくれてるってのは、護廷の隊長として単純に嬉しいよ。ありがとな、市丸。だがな、そんなのはお前の勝手な感情だ。ここを何処だと思ってる。確かに年齢からすれば、お前はまだ子供かも知れねぇが、そんな子供の我が儘なんざ、この護廷にはジャマなだけだ。それが解らねぇってんなら、今すぐ荷物を纏めて出て行け」
じっとギンを見下ろしたまま淡々と告げる一護に、この場の誰もが口を開く事ができなかった。
隊長権限で他隊の新人を追い出すなど、本来はしてはならない事だ。
だが一護は、それを解っていながらギンに向かって除隊を命じようとしていた。
そしてそれは処罰を受けてでも本気でそうするつもりなのだと、平子も藍染もこの瞬間理解していた。
しんっと静まりかえった室内に、一護の声だけが響き渡る。
「お前ら新人にとっては知ったこっちゃないだろうがな、俺ら隊長格は自隊の隊士全ての命を預かってんだよ。…二百人に於ける隊士全ての命運が、自分の肩に掛かってんだ。──どの隊長もな、誰一人お前らに無駄華散らせたくなんかねぇんだ。その為に、上のモンは下を育て、庇護し、守り抜くんだ。人の上に立つってのはな、そいつの為に自分の命すら掛けてんだよ。──あの喧嘩上等な十一番隊ですら、それは変わりない。だから、下のモンは隊長に従い付いて行こうとするんだ。テメエが隊長だと認めないと言った平子はな、テメエを迎え入れた時点で、テメエの命を背負う覚悟をしてんだ。
自隊に隊士を迎え入れるって事はそういう事なんだよ。それが解らねぇってんなら、お前は此処にいる資格なんかねえ。お前がどれほど才覚に溢れていようが、そんなのはただの宝の持ち腐れだ」
静かに響く一護の言葉。
護廷に入りたての隊士にはキツイ言葉に聞こえるだろうが、一護の言っている事は紛れもなく正論だ。
霊術院の頃は、あの隊長はどうのこの隊には行きたくはないなどと好き勝手な事を言っていられるが、いざ護廷に入隊し、配属されれば、その隊は自身にとっては唯一その身を…命を預ける場所に変わる。
いや、変わらなければならないのだ。
死神の職務は、護廷にあるのではない。
全ての霊なるものへの平等と自身がそれを護りぬくという誇り。
それが、死神を育て高みへと追い上げていく原動力となるのだ。
たとえ自身の思惑がどこにあるにせよ、自隊に誇りが持てなくてはこの厳しい職務は務まらない。
その死神の理念を今、一護はこの市丸に突きつけていた。
……どこまでいい子やねん。と平子は思う。
今、一護の言う言葉が死神としてあるべき姿…理想なのだという事は平子も解っている。
だが、個人の感情がそれで全て昇華されるとは露ほども思ってはいない。
確かに愚痴ったのは自分だが、市丸の一護への心酔の仕方はある意味仕方ないとも思っていた。
五百年以上も隊長として君臨し、同じ隊長格ですら一護に心酔している者は数限りない。
平子だとて、嘗てはそんな隊士の一人だった。
今でこそ対等な友人としての口をきいているが、平子にとって一護は長年どんなに追いかけても届かない存在であり続けていたのだ。
「……もうええやろ、一護」
別に市丸を庇う訳ではないが、市丸の姿に自身の昔が投影されたようで、平子はふるりと首を振り、微動だにしない一護の背に声をかけた。
確かに、昨日の市丸は失礼千万だ。
だがそれだけで護廷を追いやる程、平子は非情でも器が小さい訳でもない。
自分に対する非礼は、後できっちりシメればいいだけの事だ。
平子の言葉に、一護は漸く溜飲を下げたのか、ゆっくりと平子を振り返った。
「……平子」
珍しく人前で一護が平子を呼び捨てにする。
平子が隊長に上がってから、一護は平子を「平子隊長」としか呼ばなくなった。特に人前では。
「…もう、ええ。後はウチの隊の問題や。新人が訳も分からず無礼を働く言うんは、起こってしかるべき事やろ。まあ確かに少しは気ィ悪うなったけど、そこまでする事はあらへん。…これでも、十分に優秀な人材なんや。ウチの隊にとってはな」
取りなすようにそう言えば、無表情にじっと平子の目を見返していた一護の表情が少しだけ和らぐ。
そして、平子の言葉を飲み込んだように肩で大きく息を吐くと、「…そうか…」とぽつりと呟いた。
市丸の直接の上官、それも無礼な言葉を投げつけられた本人からそう言われては、一護もここで引かざるを得ない。
恐らく一護の今の行動は、市丸に灸を据える意味もあっただろうが、それよりも面白可笑しくそれを触れ回るその他の新人に向けての牽制だったのだろう。
部下にとっては目標となり、隊の指針となるべき平子の隊長としての権威を一護は自身が厳しく接する事で護ろうとしてくれていたのだ。
それは確かに有り難い事なのだけれど。
まだ俺は──お前に護ってもらわなアカン存在なんか───。
平子にとっては、それが複雑な思いがあるのも拭えなかった。
平子の言葉を受けて、一護がまたギンに視線を落とす。
「───市丸」
その名を呼ぶと、ギンはまだヨロヨロとした覚束ない足取りで、それでも壁を支えに身体を起こし一護に向かって頭を垂れた。
「……すんません……」
「それは俺に言うべき言葉じゃねえだろう」
静かにそう言うと、ギンが顔を上げて平子に視線を移す。そして平子に向かって頭を下げた。
「………すんませんでした、平子隊長」
昨日の生意気な態度はどこへやら、愁傷に詫びの言葉を吐くギンに平子が頷く。
さすがに憧れの一護からの説教と一発は、相当に効いたらしい。
「…ボク…失礼な事言うてもうて…すんませんでした。……確かにボク、黒崎隊長に憧れ持ってます。ずっとずっと…ボク憧れて…目標にしてきて…。やから護廷に来さえすれば側仕えできるもんやって、ずっと思うて来たんです。やから、あん時はそれが叶われへんっていうショックが強うて…。別に平子隊長がどうの言うんやないです。他の隊長やて同じ事言うてたと思います。ホンマ…すんませんでした」
そう言ってまたペコリと頭を下げるギンに、平子はもういいと言うようにヒラヒラと手を振った。
「あー、まあ…しゃあない。ええよ、別に。一護が言う程気にしてへんし。…せやけど、これからは、その俺に対する暴言含めてしごくで。……覚悟しときぃや」
「──はい」
平子の言葉にしっかりと頷いて、ギンは改めて一護に向き直る。
「黒崎隊長」
「ん?」
「──ありがとうございました」
その言葉に、一護が漸く厳しい表情を緩めた。
「ヨシ。まあ生意気なのも気が強ぇのも、それはそれでお前の持ち味だ。でも、言っていい事と悪ぃ事の区別が付かねえのは、只の馬鹿だ。それくらい解るな?」
「はい」
その返事に漸くにっこりと笑うと、一護は呆然と事の顛末を見ていた他の新人達を振り返った。
「……お前らも、面白可笑しく触れ回ってんじゃねえぞ?平子隊長はな、案外ナーバスで一度落ちるとナメクジみたいにウダウダする奴なんだから、そこはお前らがフォローしてやれ。落ち込むとコイツ、俺の業務妨げて延々愚痴言いにくんだ。な、迷惑だろ?俺の為にも、ここは一つ、お前らの胸の裡にしまっといてやれ」
「──ア……アホかっ!何言うてんねやっ、一護ッ!お前が俺の事オトして、どーすんねんッッッ!
お前ら、今言うた事本気にすなやっ!?」
もの凄い剣幕でそう捲し立てる平子に、今までの緊張の糸が解れたのか、どこからともなくクスクスと笑いが起こる。
「───一護ッッッ!!」
クワッと一護に目を剥く平子に、一護も口に手を当てて笑いを漏らす。
「…平子隊長……。また、黒崎隊長の所に愚痴言いに行ったんですか……」
そして、呆れたように言う藍染の言葉に、たまらず四席が吹き出した。
それを合図に、五番隊隊主室に廊下まで聞こえるくらいの笑い声が響く。
最終的には踏んだり蹴ったりの平子だが、まあこれはこれで丸く収まった事にしようと、一護も肩を震わせる。
「やから───ッ!エエ加減にせんと、お前ら全員減俸するぞ、オラ───ッッ!」
笑い声に紛れて平子の虚しい叫びが隊主室に木霊する。
緊張の糸が解れた反動か、一気に和やかムードとなった隊主室では、今度は平子の数々の恥ずかしいエピソードを一護が絶賛披露中だ。
その様子を見ながら大元の原因であるギンは、皆と一緒になって笑い転げる一護に視線を移して、そっとため息を落とした。
素直に平子に詫びを入れたものの、正直反省しているかと言えば露ほどもしてはいない。
それでも、なぜ一護がああいう行動に出たのかだけはギンも理解していた。
そのタイミングがなぜ、今なのかも。
一護と繋がっている事を知られてはならない。
それは厳命であり、掟。
確かに、入隊初っぱなから、それを覆すような言動をした自分が悪い。だが、あの時は、怒りとショックで完全にブチ切れていたのだ。
だがもし本当に一護が怒っているのなら、昨夜の段階で言えばすむ事だ。
……ちゃっかり利用してくれてから……。
これは一護独特のパフォーマンスなのだ。
護廷の『黒崎隊長』としての一護の行動。
そして、平子真子に対する一護の、罠───。
色を排除した清冽なまでの生真面目さが、彼を惹き付ける餌だと知っているから。
──まあ、ええわ。
多少は痛い思いはしたし、状況を上手く利用された感はあるが、どうせ一護の方が一枚も二枚も上手なのだ。
それに…とギンは思う。
一護は不本意だろうが、自分がこれだけ一護至上主義なのだと他に示せば後々が楽だ。
今ならまだ『一護に憧れる新人』ですむ。この先、隊が違っても、それを周りが知っているなら大っぴらに懐きまくれるし……と、ちゃっかり今回の事を逆手に取る気満々のギンにふと視線が刺さる。
それが誰だか見なくても解る。
どうせ一護の手を煩わせたとか何とか…後できっちり小言を言うんだろうなとチラリと視線を向ければ。
黒縁眼鏡の奥から、「莫迦が…」と言わんばかりの呆れた視線にぶつかった。
業務後、久しぶりに飲みに出ていた平子と一護は、帰り道の草むらで酔い覚ましがてら風に当たっていた。
ごろりと寝転がって、二人して星を見上げる。
酔った身体に心地良い風と、満天の星空。
このまま寝ちまいそうだな…と一護がぼんやり思った所で、平子がおもむろに口を開いた。
「……ったく…。結局実力行使言うんは、ちーっとも変わってへんなぁ」
「ああ?…んなこと…ねえだろうがよ…」
少々語尾が濁ったのは、少しは思い当たる節があるからだが…いや、昔ほどではないはず…と一護は思い直す。
だが平子は、そんな一護にふふんと鼻を鳴らしながら、揶揄うように言った。
「何言うてんねや。今も昔も、結局はやる事は同じやんけ。…隊長になってからは少しは丸ぅなった思てたんやけど…俺の錯覚やったわ」
「……うるせぇよ……」
さすがに長年一護の所行を間近で見ていただけに、一護は少々分が悪い。
ムゥっと口を尖らせる一護に、平子が上体を起こして一護の顔をのぞき込むと可笑しそうに笑う。
「ホンマ、ずっと変わってへん…。俺の──上官やった頃とな……」
昔を懐かしむようにそう零した平子に、一護が眉を寄せた。
「いつの話してんだよ」
「……遙か昔や」
ふいっと一護から視線を逸らし、そのまま遠くに投げて平子はぽつりと言った。
そう……、遙か昔───。
平子が新人としてこの護廷に入った頃。一護もまだ隊長ではなく、副官という立場だった。
そして、この平子を一から育て鍛えたのは、他でもない一護だったのだ。
一護を目標に技を磨き、力を付け──そうして平子は一護の次官、三席になった。
あの頃は毎日が楽しくて仕方なかった。一護は仕事には厳しかったが、その分優しくもあった。
厳しさと慈愛。それを一護から向けられる事への優越感。
ずっとこの日々が続けばいいと願っていた。
それから程なくして、一護は隊長へと昇格し、その隊を離れる事になった。
上官と部下という間柄であった二人が、今や対等とも言える立場で話し、友人という態度を取るまでには様々な紆余曲折と遙か長い年月があっての事なのだが…。
いつしか平子自身も、こうして隊長格にまで上り詰め、立場的には一護と同等と呼べるまでに成長していた。
「なあ…一護…。──俺、追いついたで……」
「……平子……」
「真子て呼べって、何度言うたら分かんねや…」
「────」
軽く息を吐いてそう言う平子に、一護はただ沈黙で返す。
「…もう…、ええやろ…。随分待ったで…。待ち過ぎて頭狂しゅうなってもうたわ…。まだ、何が不足なんや」
いつになく真面目な口調で、そして真剣な瞳で一護を見据える平子に、一護の瞳が戸惑うように揺れた。
「平子……」
「同じ隊長格にまで上り詰めたやんけ。そりゃ、経験は一護ん方が上やろうけど…立場は同じや。それでもまだ待て言うんか…?」
「…だから…、何度も言ってるだろ…。俺は───」
「友情がなんぼのモンや」
ガッと手首を掴まれ、その場に縫いつけられる。
平子の長い金色の髪が、一護の表情を他から隠すようにバサリと覆い被さる。
戸惑いを乗せ、僅かに悲しげに歪むその顔を見ながら、平子はクッと唇を噛んだ。
「一護…。何度言うたら分かるんや。もう、ええやろ。エエ加減焦らすなや…」
そう言って顔を近づける平子に、一護は思わずふいっと顔を反らせた。
降りてくる唇が一護の唇を掠めて頬に当たる。
そのまま一護の唇を追うようにずらされた唇に、一護は懸命に首を振った。
「……ッ。──何がそないにイヤなんやッ!?」
地べたに一護を縫いつけたまま、平子が叫ぶ。
ずっと──ずっと気が遠くなるほどの長い間、繰り返されてきたやり取り。
こんなにも──これほどまでに、愛しているというのに。
自身の気持ちを拒否する一護を、無理矢理でも犯したい。
だけど……それさえできない程、一護の事を思ってきたというのに。
「他に思うてる奴が居るんか…?」
沸き起こる思いに顔を歪めながらそう問いかける。
そう。もう、幾度となく。
「……そんなの…いねぇっつってんだろ……」
僅かに目元を潤ませながら、それでも強い瞳で見返し告げるその言葉を、平子は何度聞いただろう。
「……ッ。やったら、なんでや…ッ!なんで俺やとアカンのやッ!!」
「──平子……」
そんな同情するような瞳で俺を見るなと思う。
そんな瞳をさせる為に、気持ちを告げている訳ではない。
毎度憎まれ口を叩き合いながらも、一護が自分の事を友人として受け入れてくれているのは平子も解っている。
でも、それだけでは足りないのだ。
そう何度も言っているのに───。
それならばいっそ、離れてくれとさえ思う。
自身に恋心を持たれる事に我慢がならないからと。
友人としてすら付き合えないと、完全に拒否された方がまだ諦めもつく。
だが一護はそれすらもしてはくれない。
「……俺は、お前の事は…大事な友人だと思ってるよ…。それじゃ…ダメなのか……?」
「──やから……ッ!」
幾度となく繰り返されたやり取り。
一護を押さえつけたまま、平子の手が、身体が小刻みに震える。
本気で振り払おうと思えば、一護には造作もない事だ。だが一護は、あくまで"平子から"離せと無言で訴える。
なんて残酷な──優しい一護。
決して受け入れられない思いを何度もぶつけられて。それでも、最終的には一護は自分からこの手を離す事をしない。それは一護の優しさなのだろうか。それとも───。
「……男が…ダメな訳やあらへんのやろ……?」
これも何度もした問いかけだ。
それに、一護は微かに微笑みながら首を振る。
「……男とか…女とかじゃねえよ…。お前の事は…ダチとしてしか考えられねえっつってんだ…」
「なあ、なんでや!?俺のドコがそんなに不服やねんっ!?」
苦し紛れに平子が叫ぶ。
一体何が足りないのか。
どこをどうすれば受け入れてくれるのか。
嫌われている訳ではないと思う。一護の言うとおり、平子は一護にとっては大事な友人なのだという自負もある。
だったら一体、何が足りないのだ。
恋愛は、損得勘定では動かないのは平子も解っていた。
でも、これだけ近くにいてさえ一護を捉える事ができない虚しさが平子の心を捉えていく。
どす黒い闇が平子の心を覆う。いっそ酔いのせいにして無理矢理身体を繋げてしまおうか。
だが、その思いに飲み込まれる前に、平子の耳にいっそあどけない一護の声が響いてきた。
「え?──全部?」
きょとんと大きく目を見開き、僅かに小首を傾げて見上げてくる飴玉のような瞳。
たった今、自分を喰らいそうな男を目の前にしてこんな無邪気な表情ができるのかとあきれる程に、一護の表情は邪気のないものだった。
それに計らずとも平子の張りつめた心が萎えていく。
気が抜ける程の子供じみた一護の顔。
自分よりも遙かに年上だというのに、この目の前の存在はどこまで純粋で鈍いのか。
平子だとて、一護一筋とはいいながら、長年それだけを糧にするには男としての本能が押さえられない部分もある。
はっきりいって、女好きだと思うし、本命はあくまで一護だがそれなりの恋愛経験も積んでいる。
だが、一護は……。
なんでそこまであどけないのか不可思議なくらい、まったくもって恋愛の機微が解っていない。
これが計算なら本当に大したタマだと思うが、見下ろす一護の表情にはそんな計算など微塵も感じられない。
なんだか自分一人が熱くなっているのがバカバカしくなる程の無邪気さに平子はがっくりと肩を落とした。
「全部ってなんやねんッ!こんなイイ男捕まえて失礼やで、お前!」
「……そういうトコとか含めて、全部」
茶化すように言う一護に、段々と口喧嘩の様相が強くなる。
相変わらず一護を地面に縫いつけたまま、いつもの様に他愛もない言い合いが始まる。
端から見れば結構危ない雰囲気なのだが、結局最終的には、双方喧嘩上等の状態に収まってしまうのは悲しいかな長年に於ける同じやり取りの弊害だった。
果たして誤魔化されているのか、それが一護の本気なのか。
今ひとつ掴めないが、そこを踏み越える事がこの先二人の間に亀裂しか齎さないのは平子にも解っていた。
そこを超えた先にあるもの……。
一護を傷つけても、泣かせても。
そしてそれが決定的な別れを含むものでも。
それを承知でそれを踏み出す一歩が、今の平子にはまだない。
何度も何度も、自問し、覚悟を決めても、こうして平子の気勢を根こそぎ削ぐような言葉を一護の口から吐かれると、平子の決心はいつもそこで萎えてしまう。
それを呑みさえすれば、いつもの関係に戻れるのだという暗黙の了解が平子に二の足を踏ませるのだ。
「……お前…反則やで、一護……」
がっくりと肩を落としそう零す平子に、一護は何の事だというように首を傾げる。
その仕草までもが愛らしく映り、それ以上の無体は働けないと平子はいつもそこで思ってしまう。
「……何が…?」
相変わらずきょとんとした表情で平子を見上げてくる一護に、やっぱりこのまま犯してやろうかと思ってしまう。
身体さえ強引に繋げてしまえば、情の厚い一護の事、無下にはすまいという思いも働く。
だが……、結局平子は無意識にいつもの如く縫いつけたその手を緩める選択をしていた。
「……ったく…。バカ力なんだよ、テメーは」
ブツブツ言いながら手首をさすっている一護を恨めしく思いながら、もっと恨めしいのは自分の根性のなさだと平子は頭を抱える。
どうしてこんなにも愛しいのだろう。
かつての上官で、憧れだった存在───。
一護に少しでも近づきたくて、必死で己を磨いた。
一護の側に居る自分を恥じないように。少しでもふさわしい男になれるように。
包み込むように温かで無邪気な笑顔。それに見合うべく、どこまでも純粋な魂。
護りたいと、ずっと思ってきた。
なぜそこまで護廷の為に──他人の為に必死になるのかと腹立たしく思うくらいに、一護は自身よりも責務や他人の命を大事にする。
直属の部下だった頃も、そして今も。見ていて腹が立つ程、一護は自身の生命には無頓着だ。
だからこそ、護りたいと思うのだ。
『少しでも多くの人を──その魂を護りたいんだ』
それが一護の信念なのだと聞かされたのは嘗ての上官から。
それに違う事なく、一護は常に自分よりも他人を──護廷を優先にしてきていた。
なぜそこまで尽くせるのか。
なぜそこまで──自身の命すら掛けられるのか。
正直平子には解らない。
平子だとて護廷の戦士である以上は、戦いに於ける者として──そして、上官としての心得は十分に解っているつもりだ。
それでも自身は可愛いし、自分の命を捨てる気はさらさら無い。
最終的に自身か部下の安全かを迫られれば、自身を差し出す覚悟くらいはある。
だが一護は。そんな理屈抜きに、どんな場に置いても常に相手が優先なのだ。
自身の命を粗末にするなと、一体何度言い聞かせた事だろう。
この護廷にとって、一護の代わりなど誰一人として居ないのだと。だから命を粗末にするなと──
一体何度言えば解るのか。
それでも一護は、解ってるといいながら、また同じ事を繰り返すのだ。何度でも。
そして、そんな一護だからこそ───愛しい。
「ホンマ…お前、狡いわ……」
思わずそんな言葉が口を吐いて出てくる。
自分の気持ちなど、嫌と言う程解っている筈なのに。
いっそ完全に拒絶された方が楽だと、それこそ何度も言っているのに。
だがそれを突きつけるたびに、一護はいつも同じように傷ついた顔をする。
そして詫びるのだ。いつもと同じ台詞で───。
「……ごめん……」
項垂れ、悲しそうな顔をして。零すように詫びの言葉を吐く。
今までも幾度となく見慣れた光景。
それに腹を立てるのは簡単な事だ。
詫びるくらいなら決定的な言葉を出せと。
何度そう言いかけた事だろう。
それでも、平子はその顔を横目でちらりと見て、いつもと変わらない台詞を吐いた。
「……ええよ……。悪かった」…と。
「ごめん…」と、これまた同じ台詞を一護が言う。
一護の意志を無視して無体を働いたのは自分だ。
自身の行動に関しては一切の後悔はないが、一護にしてみればそれでも怖かっただろうという事は平子にも解る。
なんでもないふりをしていても、微かに一護の身体が震えているのは平子も気づいていたからだ。
一体これで何度目のやり取りだろうと考えて、平子はふうっと肩で息を吐いた。
第五章 終幕 end

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