──天上の華 血の烙印 4 エピローグ──




「正直言うてな…、あん時の自分が何思うてたんかは今でもよう分からんのや。せやけど、ボクは一切後悔もなんもしてへん。確かにあいつらは血ィの繋がった親やったんやろうけど…そんな実感はボクにはないんや…。結局、あの後皮肉にもほとぼり覚ます意味も兼ねて、あの女が言うてた留学する事になったんやけどな」

淡々と語る市丸の感情がどこにあるのか、一護には伺い知る事はできない。
壮絶ともいえる過去。
普通に両親からの愛情を受けて育った一護には想像も付かない確執。
同情めいた言葉など寄せ付けない程の出来事。
事のあらましは既に藍染から聞いてはいたものの、当事者である市丸から語られた事実に一護は言葉もなく、ただ市丸を見つめる事しかできなかった。
「…ごめんな。あんまり、聞いてて気持ちええ話やないやろ」
言葉を無くしたように市丸をじっと見つめる一護の頭を、大きな手でポンポンと軽く触れて市丸が笑う。
その笑みが、いつもと何も変わらないという事が、一護には悲しかった。

「…一護…?」
市丸から不思議そうに首を傾げられて、一護がふと自分の頬を伝う雫に気がつく。
「…え……。あれ……?」
スルスルと零れ伝う涙に自分でも驚いたように一護が瞬く。
この場で泣くつもりなどまるで無かったのに。自分の意志に反して後から後から透明な雫が瞳から零れ出ていた。
「泣かんといて…一護」
するりと一護を抱き寄せて、市丸が一護の髪を優しい手で撫でる。
その仕草に、一護は溜まらずに市丸の背をぎゅっと掴んだ。
「…ごめ…。俺…泣くつもり…なかったのに…」
「──優しいなぁ…一護は…」
そう言って市丸が一護の背に回した手であやすように背中をさする。
「…んなことされると…止まんなくなるだろ…」
強がるようにそう言えば、市丸が一護の髪に顔を埋めてくすりと笑いを漏らした。
「一護が泣くような事やあらへんよ…。さっきも言うたけど…、ボクは別にあの事は辛いとも悲しいとも…何とも思てへんのや。一護からしたら想像つかへんやろうけど…、こういう親子も居るいう、そんだけの事や」
静かに言う市丸の言葉を聞きながら、一護はきゅっと唇を噛む。
「……が…う…」
「ん?」
涙声で小さく呟かれた言葉が市丸の胸元で消える。それに優しく聞き返すと、一護の頭が小さく横に振られた。
「…違う…。──親なんかじゃ…ない…」
「一護…?」
小さく、それでもしっかりとそう言う一護の言葉に、市丸が首を捻ると、一護は涙に濡れた顔を上げて市丸をしっかりと見つめて言った。
「それは…親じゃねぇよ…。確かに…お前をこの世に生み出してくれた事には…俺も感謝してる。
でも、それは親とは言えない」
「一護……」
きっぱりとそう言う一護に市丸が目を見開いた。
血の繋がりだけで親の顔をしてきた彼らに対して、市丸自身はずっとそう思ってきた。
けれど、まさか一護がそんな事をいうなどとは思っていなかった。
一護の育った環境や性格を考えれば、そんな台詞が出た事に市丸が驚く。
「俺が思うのは綺麗事かも知れねえ…。世の中には自分の子供を平気で捨てたり…殺したりする親がいるって事もわかってる。…でも、それでも…生まれてきた子供に愛情を注いで…責任持って初めて親だって言えるんだと俺は思う。俺がギンの立場だったらなんて、軽々しく思える事じゃないけど…、亡くなった人にこういう言い方は悪いのかも知れないけど…。でも、もし生きてたとしたら、たぶん俺一発くらい殴ってると思う」
「一護」
思いの他強い言葉に、市丸は一護を見返した。
その視線の先で、一護の強い瞳が市丸を捕らえる。
「お前がした事は許される事じゃない。たとえ、相手がどんな人間であっても…その命を奪う行為は罪だと思う。でも…それでも…俺は、お前が好きだ。その過去も…何もかも含めて…俺はお前を愛してるって胸張って言えるよ、ギン」
しっかりと市丸の瞳を見つめて、一護は自分の思いを告げた。

その出来事が市丸の中でどう処理されたのか、一護にはわからないし市丸もきっと語らないだろう。
市丸の言うようにすでに過去の事として風化してしまったのか、それとも気づかないまでも未だ古傷として残り続けているのか、今の市丸の表情からは伺い知る事はできない。
だが、今市丸が何を一番恐れているかという事だけは、一護にもわかる。
市丸が欲しいのは、同情でも慰めでもない。
彼が案じているのはただ、一護の気持ちだけだ。

市丸がどれほど一護の事を愛しているのか、自惚れではなく一護は知っていた。
これまでに人を愛した事などないという市丸の言葉に嘘などないのだと一護は思う。
市丸の、過剰なまでの過保護も独占欲も、一護は正しく理解している。
その上で、この男に縛り付けられたいと一護自身も、そう望んでいた。
誰のことも愛せないとそう思い、独り血塗られた世界に佇んでいた市丸からの愛情を一身に浴びる事は、並大抵の覚悟では務まらない。自分の全てをなげうってでも、一護自身この男が欲しいと思わなければ、市丸の過剰過ぎる程の激しい愛など受け止められない。
市丸の手が血に塗れている事も、そしてそれが、法的に罰せられていなくても、市丸の犯した罪が消える訳ではない。
どんな理由があろうとも、人を殺めた罪は市丸自身が一生背負っていかなければならないものだ。
そして今、それを知った上で、一護はその罪を自分も背負って行こうと思っていた。
市丸が泣けないのなら、その分、自分が涙を流せばいい。
市丸が悲しめないというのなら、その悲しみを自分が背負えばいい。
心の奥底に封じ込められた幼い市丸の心。
何も感じてなどいない訳がない。恐らく、両親からの愛情が得られないと知った時点で、幼かった市丸は全てを期待する事を止めてしまったのだ。
幼子がただ親の愛を求める──そんな普通の事を、決して得られないと知った時、市丸はその手を伸ばす事を諦め、親を──引いては人を愛するという事を自分の意志で止めてしまったのだ。
常人よりも優れたその知能故に、物心が付く頃には市丸は感情より先に、理性でそれを止めてしまった。
それが……どれほど悲しい事なのか、市丸自身が気がついていないだけなのだ。


溢れる涙を拭う事もせず、市丸を見上げてそう言う一護に、市丸は歪んだ笑みを返した。
この話を実際一護がどう受け止めたのか、それを聞く勇気は市丸にはなかった。
離れていたこの数日間、一護が何を選んだのか──そして、これから何を選ぶのか。一番聞かなければならないのはそこなのに、いざ手を離す事になるかも知れないと思うと、やはり自分からは切り出せない。
こんな自分でも好きだと…愛していると言ってくれた一護。
もう…これで十分かも知れない……。
市丸の心情を映したかのように、ゆっくりと一護の髪を梳いていた手が止まる。
そして、気遣うように身体を離そうとした市丸に、突然一護がしがみついた。
「…一護…?」
「バカ…!離れんな…っ」
胸に顔を押し当てて、背中に回した手で着物をぎゅっと握りしめる。
渾身の力で抱きしめられて、市丸は固まったまま伺うようにそっと一護の名を呼んだ。
「…一護…。ええよ…ムリせんとき。たぶんな、どんなに平気や思おうとしても、こないな事簡単に忘れられる訳あらへんのやから。ボクは人殺しで、極悪人や。ボクが極道いう事だけでも、一護にとっては十分覚悟いった事やったと思う。こんなボクでも好きや言うてくれるだけで十分や…やから…離れる言うても……」
「誰がそんな事言ったよ!」
市丸の言葉を最後まで言わせずに、一護は市丸を振り仰いだ。
そして…漸く今までの自分の行動が、市丸に決してさせてはならない誤解を生んだのだと自覚する。
それを打ち消すように、一護は再び溢れてきた涙と嗚咽に唇を噛みしめながら強く頭を振った。
「…ちが……っ!違うんだ…!そうじゃない。俺は…ギンと別れようなんて、離れるなんて考えた事なんて、一度もねぇよ…っ!」
その一護の言葉に、虚を付かれたように市丸の目が見開かれた。
「違う……。ごめん…ギン…。俺、自分の事で精一杯で…お前がそんな誤解するなんて事…全然考えてなかった…。そうじゃないんだ…。本当に、お前が考えてた事なんて、俺は一つも思っちゃいねえ…。ただ…どうやったら、上手く、お前が嫌な思いをせずに、話聞けるのかって…そればっかり考えてたんだ……」
「……それだけ…?」
一護の口から聞かされた一護の思いに、市丸はそんな訳ないだろうというように怪訝そうに返す。
それにしっかり頷いてから、一護が続けた。
「確かに…最初この話を聞いた時には俺…動揺した。俺にとっては想像もつかない話で…正直、吃驚した。
噂話として聞いた時も、うまく飲み込めなくて…どこまでが噂でどこまでが本当なのか全然わからなかった。
わかんなかったら聞けばいいって事は頭ではわかるんだけど…でも……お前に聞くべきかどうか…本当に迷った。
きっとお前は話したくない事なんだろうなって思ったら、俺が聞かなかったふりをするのが一番いいんじゃないかって思ったり…。でも、どうしてもお前の口から聞きたかったし、やっぱりきちんと聞いておくべき事なんだって思ったんだ。
だから、藍染さんに聞きに行ったんだ。俺がまっさらな状態で聞くよりも、少しでもお前の負担がへるかな…なんて思って…。本当に、ごめん、ギン。そして…ちゃんと話てくれて…本当にありがとうな、ギン」
そう言った一護の言葉に、市丸は力なく首を振る。
「お礼言われる事やあらへんよ…。それに…ボクは一護に謝らなアカン。──ごめんな、一護。
ボク狡いんよ。抜き差しならんこんな状態でこんな話聞かせる事になって…、ホンマ堪忍な…。」
そう詫びる市丸に、一護は小さく首を振った。
「俺は…。ずっとギンの側にいるよ…」
市丸を引き寄せながら、唇が重なる瞬間、その言葉を落とす。
「ええの?一護…」
濡れ縁の板の間に倒れ込む一護の頭を支えながら、そっと横たえた身体を見下ろして市丸が呟く。
僅かに触れるのを躊躇うようなその手を掴んで、一護は自らその掌に口付けた。
「ん。…このまま…抱いてくれよ…。この手で、俺に触れて…」
最初に市丸に抱かれた時に思った事を、今再び強く思う。



たとえこの手が血塗られていたとしても。
それが市丸である限り。
変わらずにずっと求め続けるんだろう、自分は。
──そう、何度でも。




血の烙印 end



※市丸さん過去編でございました。たぶん、賛否両論ありそうですが、これが一護の出した結論ということで。
ちょっと重く暗い話だったので、こんどはぱかーんと明るい話でも挟もうかなー。