※【回想録】 ギンの昔語りですが、敢えて小説形式にしています
(本来は市丸呼びですが、ギン以外の市丸さんが出てきますので、ここだけギン呼びで)
流血・残酷シーンがありますのでご注意願います
そんなものは見たくないけど、内容は知りたいという方はごく簡単ですがこちら↓(反転でドゾ)
なるべく読まなくても解るようにはしています。実際の内容は藍染さんが話したのと
ほぼ変わりません。ギンの心情についても、ここではほとんど語られてはないです。
次回でそれが明らかになるかといえば…それも微妙…。
なので、「こういう事があったんだ」という事だけ念頭に置いてさくっと次へどうぞ!
その日は暑い日だった───。 市街地から外れた山間とはいえ、やはり京都の夏は暑い。 月遅れの盆が近く、連日の真夏日で殊更蒸し暑い日だった。 その知らせは、前日の夕方近くになって急にやってきた。 ギンの──実の──そして形ばかりの両親、その二人が本家に来るという。 彼らの訪問はいつもそうだ。ふと思い立ったように気が向いた時だけ訪れる。 物心も付かない頃からこの本家で育ったギンにとって、普通の子供のように親に対する思慕の念など何もない。 それどころかギンはたまにこうやって訪れる彼らを疎ましくさえ思っていた。 当時ギンの父親は、市丸の直系であるにも拘わらず大阪で小さな組を持たされていた。 母親は元水商売のホステス。大阪でも評判の美人だった。 大阪北新地のクラブでホステスとして働いていた母親を市丸の父が見初めた形で結婚した二人だったが、当時その美貌で北の水商売界隈でNo1として華やかな生活を送っていた彼女が市丸の父と結婚したのは、単に彼が関西屈指の極道である市丸の直系だという理由に他ならなかった。 元々天蓋孤独で生きてきた彼女にとって、頼れる後ろ盾というのは魅力的な餌に思えたのだ。 いずれは市丸の家を自分の思い通りにできる──。天文学的な財産と、極道とはいえ莫大な権力。 その妻の座というのは、一介の水商売の女にとってはこの上なく魅力的に映ったのだろう。 あの市丸の直系が自分に惚れている。それは彼女の自尊心を満たし、自分が同等の権力を持ったと錯覚するには十分だった。実際、彼女が市丸の女になってから、彼女に逆らえるものは誰一人として居なくなったのだ。 そして思いもかけない妊娠──そして結婚。勤めていた店を辞め妻となってから益々彼女は我が侭になり、贅を極める生活を望んだ。そして、それが示す様に、彼女はギンを生んだ後も母親になれるような女ではなかった。 関西極道の頂点に君臨する市丸の直系の妻であり、母。その地位が彼女にとっては魅力であり、全てだった。 ギンはその血を引く子供としての価値しかなく、母親としての愛情など掛けた事すらなかった。 そして、父親もまた。市丸の威光を笠に着る事でこの世界を生きてきた男だった。 特別な才覚がある訳でもなく、人望が厚い訳でもない。 ただ、他人を威圧し、権力を振りかざす事で他人を意のままにしてきた男。派手好きで見栄っ張り、色と欲に彩られた彼の生活もまた、入れあげたホステスを妻に迎えた所でなんら変わる事などなかったのだ。 相変わらず激しい女遊び。その度に繰り返される派手な夫婦喧嘩。 生まれたての子供の前で、毎日のように飛び交う怒号。 父親にも母親にもなれない、自分の欲が全てのある意味似たもの夫婦。 結果起こる、完全な育児放棄───。 その状態に見かねて手を差し延べたのが、当時夫を亡くし子供と共に本家に身を寄せていた元柳斎の娘である乱菊の母・静だった。 子供に対する愛情など何もないくせに、市丸の直系を生んだという自負なのか頑なにギンを引き取る事を拒む彼らに結果、親権だけは手放さないという約束で、ギンは本家へと引き取られる事となる。 そして、ギンが三歳を迎える頃にギンの預かり知らぬ所で彼らとの溝は深まっていった。 引き取られた当時、親からまったく愛情を注がれず、録に話しかけられる事もなかったせいなのか、同じ年に生まれた乱菊に比べギンは口が遅かった。まだ赤ん坊と言ってもいい筈の子が、泣く事も笑うこともせず、感情を露わにすることすらしない。乱菊が言葉を覚え、覚束ない言葉で喋り初めてからも、ギンはまるで人形のように口を開く事すらしなかった。精神的なものなのか、はたまた知能に何かしら問題でもあるのかと訝しむ周りを余所に、静はそんなギンに対して我が子と同じように細やかな愛情を注ぎ、根気強く接した。それが功を奏したのか、周りに怯え人形のようだったギンは次第に落ち着きを取り戻し、本家に来て1年2年と過ぎた頃には乱菊を相手に口ケンカする程までに口が達者な子供になっていた。 そして、何より驚かされたのはその知能の高さだった。初め知能に問題があると疑われたのが嘘の様に、ギンは与えられる絵本はおろか、大人でも難解な本を次々と読み漁り、驚くべき記憶力と理解力でそれらを吸収していった。 そのギンの才にいち早く目を付けたのが、市丸の長である曾祖父元柳斎だった。 三歳を迎える頃には、ギンの知能は優に小学生レベルを超え、大人と言えどもギンの頭の回転の早さに付いていける者すら少なくなっていた。そんな曾孫に元柳斎が一家の行く末を託す事を決め将来の総帥とするべく、当時次代の幹部へと目を掛けていた藍染を教育係として迎え入れた事は、一家の幹部達にとって少なからず衝撃をもたらした。 そして何よりも──。その事実を一番受け入れ難く思っていたのが、他でもないギンの両親だった。 ギンの父親にとって、『市丸』は、黙っていても自分の手中に転がり込むべきものだと思っていたのだ。 関西極道の頂点に立つ市丸。自分はその直系の孫だ。祖父である総長はいつ引退してもおかしくない年。しかも、自分の父はこの権力に背を向けて堅気に成り下がっている。今市丸の本家に居る叔母も、市丸の血を引くとはいえ所詮は妾腹、しかも女だ。この自分が形ばかり幹部の名を与えられ、大阪で小さな組しか持たされていないのは誰がどう考えてもおかしいだろう。そのうち向こうから頭を下げて自分を迎え入れるに違いない。 年々妻の言い方もきつくなる。「あなたが市丸を継ぐというから結婚したのよ」「どういう事なの。どうして市丸の直系のあなたがこんな小さな組しか持てないの。本当はあなたが継ぐべき組でしょう」「私が何の為にあの子を産んだと思ってるの」───。いつまで経っても今だ跡継ぎ所か大幹部にすらなれない。それを自分の才覚のなさだとは彼はどうしても認める事などできなかった。いずれ自分が組を継ぐ。今までの事はその為の布石にしか過ぎない。 そう思い、妻にもずっとそう言い聞かせてきた。 いずれは全て自分達のものになるのだと──。息子が、ギンがあの爺に気に入られているなら逆に好都合ではないか。いくら賢いとはいえ所詮子供……それも自分達の血を分けた子供だ。親は他でもない自分達だ。 その気になればいくらだって方法はあると──。 だが、そんな彼らの思惑とは裏腹に、当の元柳斎はそれをまるで無視するようにギンの教育に精を出す。 それでも──まだ初めのうちは我慢もできたのだ。老い先短い老人の、曾孫可愛さ故の所行だと思って。 そして。この親子の亀裂が決定的となったのは、ギンが五歳、小学校へと上がる年の事だった。 わずか三つで通常の小学生のレベルを遙か超えていたギンにとって、いくら義務教育とはいえこのまま就学する事は逆の意味で難しいかと思われた。日本に飛び級制度があったのならそれも可能だっただろうが、今現在のギンの学力はすでに大学レベルにまで達していた。いくら体が子供とはいえ、頭の中身は既に大人であるギンが、同級生と机を並べるのには無理がありすぎたのだ。 共に育った乱菊もやはり普通よりも頭の回転が速い子供だったが、それでもまだギンほどに常識を逸脱したレベルではない。一緒に居ると仲の良い兄妹のような二人だったが、近頃はあきらかにギンが一緒に遊びたがらないのが端で見ていてもわかる。無理もない。外見はともかく中身は大人と子供なのだ。 妹のような乱菊だからこそ、ギンもまだ我慢しているのだろう。だが、他の子供となれば話は別だ。 結局、教育係として迎え入れた藍染と、周りの大人達の話し合いの結果、ギンはこのまま本家で個別に学習するのが最善だという結論に達した。そして、それを機に、本格的にギンに跡継ぎとしての教育を施す事が表沙汰になり始めたのだ。それに異を唱えたのは、何も彼の両親だけではなかった。 以前からその事を快く思っていないものは、幹部にも下部組織にもいた。元柳斎の手前表だって口にはできずとも、直系だという理由だけでこの『市丸』が背負える程、この世界は甘くはない。懸念を唱える者、あからさまに嫌悪するもの、そして我こそはと虎視眈々と総長の座を狙う者──。 それは水面下で少しずつ纏まりを見せ、その彼らの思惑を上手く先導した形でギンの父親は反勢力を築き上げた。 決して表立って反旗を翻すことなく。じっと時を待つ形で──。 その点だけで言えば、彼らは辛抱強く、また狡猾だった。元柳斎の不興を買えば、自分の首が危うくなる事は彼らが一番良く知っていた。そして何よりも、ギンはまだ子供だ。今は天才児と持て囃されていても、二十歳過ぎればただの人になる可能性だってある。それに、あの子供はまだ、組を継ぐということがどういう事か──この極道の世界がどんなものかは分かってはいまい。もしかすると彼の祖父のように組を捨てる事だってあるかも知れないではないか。 そうなってしまえば、後継者問題はまた振り出しに戻る。 そんな可能性を含んでいたが故に、彼らの行動は常に水面下で動く事となったのだ。誰にも気取られないように。 だが、そんな彼らの所業に幾多の修羅場をくぐり抜けてきた元柳斎が気づかない訳がなかった。 市丸のように大きな組織になればなるほど統制は難しくなる。ここで自分が動き粛正を掛ける事は容易いが、それを機に内部抗争へと発展しては元も子もない。時に圧力を掛けながら、時には見ぬふりで泳がせながら、火種が大きくならぬよう最善の注意を払うしかない。いずれ膿は出さなければならないと思いながら決定的な事象が起こらぬまま、そうしてずるずると時を重ね───、この秋にはギンが十一の誕生日を迎えるという頃──。 事は起こったのだ。……最悪の形で───。 その日。ギンは一人だった。 いや、正確にいえば一人ではない。この日、本家に居たのは、ギンを除き藍染と元柳斎、そして常に常駐している幾人かの若衆と──今だ到着していない招かれざる客である実の親。 その頃すでに乱菊親子は再婚して東京へと住まいを移しており、親を亡くしてギンの側付きとして引き取られたイヅルもその日は他へと預けられていた。 恐らく、あの両親が来ると分かった時点で元柳斎が手配したのだろう。 これまでもたびたび本家を訪れる度に、所構わず跡目の話を時には伺う様に、時には高圧的に言い募る彼らを目の当たりにして、子供に聞かせるには良くないと判断し余所へと預けたのだろう。 その『子供』に最早自分が含まれていないという事にギンは諦めと共に一抹の寂しさを覚えていた。 年齢的にはまだまだ十歳の子供──。だが、すでに周りの誰もがギンを子供扱いなどしてはいなかった。 将来、この市丸の跡目を継ぐのだと教えられたのは三つの年。それがどういう事なのかと実感したのは、小学校に上がる年の頃だった。毎日行われる剣の稽古。ありとあらゆる護身術。拳法、空手──およそ武道と名の付くものはすべて習わされている。政治や経済に関しても、これからの極道には必要だからと勉強に組み込まれた。実際に株を与えられてそれを運用する術も教えられた。人間的には合わないが、藍染の教え方は的確で無駄がない。彼の人を見下したような態度は気に障るが、教師としてはこれ以上優秀な教師はいないだろうと思う。たまに答えられない様な質問を投げかけてみても、僅かに眉を顰めてするりと躱し、翌日にはきちんとした回答を持ってくる。 恐らく行った事はないが、普通の学校などでは自分のような子供は煙たがられるだけだったろう。 尤も藍染から教えられる事の悉くがいずれは人を謀るたぐいのものだったのだが──。 人の裏をかくことは嫌いではない。自分の未来が普通の子供が夢見るような明るい場所ではなく、暗く血塗られた場所だという事も既に承知している。周りから決められた道だといえばそれまでだが、正直自分には向いているとさえ思っていた。この家に生まれ、その道が示されたのなら、それはそれで仕方ないと思う。一家を護るとか、ここに居る者を護るだとか。元柳斎が言うようなそんな面倒な事を考えている訳ではない。正直他になりたいものなど何もないのだ。 もうあと1時間もすれば彼らがやって来る。 自分達の権力欲の為だけに子を作り、それが邪魔になればなんの未練もなく人に預ける。しかも、親としての権利を主張したいが為に、親権だけは譲らない。 今更、恨み言を言うほど彼らに感情がある訳ではない。ただ、彼らのあり方が浅ましくて反吐が出そうになるだけだ。今までも事ある毎に押しかけて、自分が親だと言うようにギンにすり寄ってくる。 奴らの目的など明白だ。そして──それを手に入れようと密かに動いていることも。 ふうっとギンは重いため息を落とす。 また今日もあの下らない話が始まるのか───。 いっその事イヅルになりたいと、この時のギンは本気で思っていた。 「ギン、久しぶりやねぇ。元気してる?」 相変わらずの猫なで声で、ギンに話しかけてくる派手な女。 体に纏わりつくような声色が気持ちが悪い。 広い和室に設けられた夕餉の席。上手には元柳斎が座り、向かって左手の上手にギン、そして藍染。 そして、右手側のギンの向かいに父親、隣に母親が座っている。 このなかで唯一市丸の人間ではない藍染がこの場に居る事が不満なのか、先程からちらちらと視線を投げているが、そんな事で藍染が怯むはずもなく、静かに目の前の膳に箸を付けている。 「お久しぶり、お母はん。お父はんも、お久しぶりです」 本当は話したくもないのだが、面倒なので挨拶だけはこなす。ここでギンが反抗的な態度をとれば、それみたことかと嬉々としてこの家の教育が悪いだの学校に行かせないからだのと言い出すのは目に見えている。 面倒事はにっこり笑って受け流す。胸が悪くなるのさえ我慢すれば造作もない事だった。 「ホンマに久しぶりやな。ちょっと見ん間にまた大きゅうなったんとちゃうんか」 父親らしい事など何一つしたことないくせに、殊更ギンに対しては父親ぶりたがる。 それすらも、煩わしさを通り越してどうでもいい気分になっていた。 「そうやろか。自分の事やからあんまし分からんのやけど。でも同い年くらいの子ぉからしたら、ボク結構でかい方みたいですわ」 「ほう、体でかいんは市丸の血ィやな。でも縦ばっかり伸びて横も太らんとあかんで」 「いややわぁ、あんた。ギンが細いんはうちの血ィ引いてるからや。顔もうちに似てええ男やし、なぁ?ギン」 殊更に、自分達の血を引いていると強調するような会話。 さすがにうんざりしていると、それを察したように上手の元柳斎が助け船を出した。 「……して、今日は何用じゃ。盆にはまだ早かろう」 そう言って厳しい目を向ける元柳斎に一瞬怯んだ彼は、次の瞬間困ったような笑いを浮かべた。 「何用て…。別に用事なんかあらしまへんで。久しぶりに息子の顔見にや。ずっと離れて暮らしとる訳やし…こいつも会いたがって、寂しい寂しい言うんですわ。しかもここはワシの育った家や。爺さんも連れないこと言わんといてや」 「そうですよ。やっぱりお腹痛めて生んだ子ぉですもん。それにお爺様へのご機嫌伺いも兼ねてですわ」 「そう言う事は……」 「爺様」 二人の言いぐさにさすがに不快になったのか、場の空気をピリッとさせて元柳斎が口を開く。それを遮るようにギンが口を挟んだ。 「…なんじゃ」 「まあ、ええやないですか。ここでお小言言うのんは返って無粋いうもんです。爺様話し出すと長いし…。ボクこれすんだらまだ勉強残ってるんです。…なあ、センセ」 そう言ってギンは椀を啜りながら藍染へ話を振る。勉強が残っているなどとはもちろん真っ赤な嘘だ。 だが、この煩わしい場からさっさと逃げ出すには格好の口実ではあった。 「そうですね。今日はまだ課題が残っていますので」 ギンの言葉を受けて藍染がさらりと返す。と、そこに甲高い声が響いた。 「ちょっと!あんた何言うてんの!?こんな日にまで勉強やなんて…っ!せっかく母親が会いに来てる言うのに…っ。ギン、今日はそんな事せんでええのよ。それよりお母さんとお話でもしましょ」 「…おい…。お前、落ち着かんかい…」 「やって!ああ…もう。ええわ、後で言うつもりしてたけど、こんなんやってられへんわ!なあ、ギン。あんたもっとちゃんとした所で勉強する気ないの?」 「…ちゃんとした…?」 何を言い出すんだと言うように訝しげに聞いたギンに、話に興味を持ったのかと勘違いして母親は目を輝かせた。 「そうや。あんな、アメリカに留学するんよ。日本じゃあ、あんたの学力あう所なんかないやろうけど、向こうやったらいくらでもあるやろ?あんたはこんな所に埋もれとったらアカン。向こうでぎょうさん勉強して将来は好きな道進んだらええのや」 「お前…っ!今言う事やあらへんがなっ!」 妻の言葉を慌てて止める。さすがに、跡取りとしてギンを教育している元柳斎に向かって、ここでの教育が不足だと面と向かって言うなど命知らずにも程がある。 口は挟まないものの、どう思われたかは知れたものだ。 その夫の制止すら聞きもせず、彼女は矢継ぎ早に捲し立てた。 「あんたは黙っといて。うちは母親として言うてんねや!…なあ、ギン。あんたはまだ子供や。極道になるんはまだ早すぎる。お爺様もそう思いませんか?この子の将来はこの子のもんです。うちはこの子の将来が決められてしもうてるんが可哀想で…。ギンかてまだまだ遊びたい盛りやのに…。な、ギン。アメリカ行こ?もし不安や言うんならお母さん付いてったってもええし」 その台詞にギンは呆れてものも言えなくなる。結局、何のかんの言いつつもこの女は自分をやっかい払いしたいだけなのだ。子供の将来が不安だと言いながら、その実ギンをアメリカへ、見知らぬ土地へ一人で放り出す気なのだ。 疎まれているとはずっと感じていた。彼らとの間に親子の情など感じたことなど一度もない。 それでも──まだ、どこかに、僅かに残った欠片が今までギンを引き留めていたのだ。 たった今──。この瞬間に、それが砕け散った。──粉々に。 「いいかげんにせんか!」 ギンの顔色が蒼白に変わるのを見て、元柳斎が一喝した。 「今、何と言うた…?これが跡目を継ぐのがそんなに不服か。よいか、この藍染は儂がこれの教育係にと直々に選んだ男じゃ。なんの不足もありゃあせん!…これ以上ここで下らぬ戯れ言を言うなら、金輪際この家の敷居は跨がせん。親らしい事など一つもした事のない主らが戯けた事を言うでない!」 元柳斎の怒声にさすがの彼女も二の句が継げずに黙りこくる。 緊張の元、しんと静まりかえった夕餉の席で、ギンは一人そっと溜息を吐いた。 「──爺様。ボクもう下がってええやろか」 「ギン…」 そう言って箸を置くとギンは二人を見据えながら笑みを浮かべる。 「お母はん。気持ちだけはありがたく受け取っときます。せやけど、ボクはこの家から出るつもりあらへんし、アメリカなんぞ行く気もないです。それに…、二人共反対してるやろうけど、市丸の跡目はボクが継ぎます。これ以降この件に関して文句ある言うんなら、それ相応の覚悟して言うてると思わしてもらいますわ」 それだけ静かな声で言うと、呆然とする周りを余所にギンはするりとその場を後にした。 そのまま部屋へとは帰らずに、ギンは裏庭へと足を運んだ。 きちんと剪定された前庭や中庭とは違い、裏庭はそのまま裏手の山へと繋がっている。 子供のギンの背丈よりも高い草木が生い茂り、それはそのままギンの姿を隠してくれる。 幼い頃から、一人になりたい時にはこの場所へ来た。 ──あーあ…。言うてもうた…。 跡目を継ぐなどと──。今この場で言うつもりなどまるでなかったのに……。 あれが売り言葉に買い言葉というやつなのだろうか。 恐らく彼らは今頃あたふたしている事だろう。 今まで周りがどう言おうと、ギン本人の口からはっきりと市丸を継ぐなどと言う言葉はなかったのだ。 だからこそ彼らは、今回『留学』という大義名分を作ってギンをその位置から引きずり下ろそうとしていた。 少々面倒な事になったな、と思う。 恐らく水面下で動いていた彼らも今回の事で何らかの形で動き出すだろう。 この家にいる以上、刺客が入り込むとは思えないが、これでギンの生命の危機は約束されたも同然だ。 先程のギンの言葉がどれほどの意味を持つのかはギン自身が一番よくわかっていた。 跡目など、欲しい訳ではない。そこまで彼らが固執するような価値など、ギンには何も見いだせない。 欲しいのなら、くれてやるとまで思っていた。だが───。 もしそうしたとしても、きっと自分は殺されるだろう。子供のうちはまだ、いい。だが成長するにつれ、ギンの存在自体が彼らを脅かすのは目に見えている。臆病で欲深い人間ほど、それを脅かす存在には敏感だ。 たとえギンに何もする気がなくても。いつかギンが牙を剥くかも知れないという疑心暗鬼に捕らわれる。 そして、ギンが跡目から降り、この家を出た時がチャンスとばかりに彼らは牙を剥いてくるだろう。 そんな彼らの心の動きなどギンには手に取るようにわかってしまう。 結局、跡目を継ぐも継がずにも関わらず、彼らの内ではギンは抹殺されるべき存在なのだ。 今回のギンの発言は、その彼らに切っ掛けを与えたに過ぎない。 部屋を出る時にちらりと見た元柳斎の表情で、彼もまた何かしらの覚悟を決めたのだと知る。 ──面倒くさ……。 ふうっと月を見上げてひとつ息を吐くと、ギンは自室へと戻るべく歩を進めた。 ────? 母屋から離れへと通じる庭先にふと揺れる影を見つけてギンは思わず身を潜めた。 木陰から覗き見ると夕餉を終えたのか、二人が離れへと向かう所だった。 東にある離れは、以前ギンの父親が使用していた部屋だ。 普段は決して近づく場所ではないのだが、何も考えずに歩いていたせいで、裏庭から戻る時この離れに通じる道に出てしまったらしい。 あの後の場は恐らく散々なものだったのだろう。静まり返った庭に声を潜めながらも文句を言う声が届いてくる。 「ホンマに…なんやの、あの子。跡目継ぐやて…!」 「まったく。爺さんにも困ったもんや。しかも、しっかり牽制掛けて来おって…」 「…なあ…この前言うてた話…。あれ、…でけへんの?」 「さすがに本家居る時は無理やな。刺客送る言うても…」 「アホ!こんな所で!…続きは部屋入ってからや。…盗聴器とかないやろな」 「そこまではせんやろ。──ああ、先入っとれ。……ああ、もしもし、なんや?──ああ」 二人の会話をじっと息を潜めて聞いていたギンに気づきもせずに母親は部屋へと戻り、父親は掛かってきた電話を受け取る。 すぐ側に息子がいることすら気づかずに、その息子を殺す算段をする実の親。 何度も、何度も繰り返し話され、すでに日常と化したであろうその会話。 悲しいとも寂しいとも、微塵も思わなかった。 ただその状況にくすりと思わず笑いが込み上げる。 「──せや、こっちもうかうかしてられへんで。あいつさえ居らんようになったら残る直系はワシだけや。その前に幹部会のやつら少しでもこっちに…。──そんなん、幾ら使うてもええ。極道かて組織じゃ言うんをあの爺さんに分からせたる」 堂々と──。本家の庭で反旗を翻す相談事か。呆れてものも言えない。──それとももう、そんな事すら隠す気が無くなったのか。 込み上げていた笑いがふと、暗い溜息に変わる。 気づかれないようにするりとその場を後にするとギンは母屋へと向かう。 自分が何をする気なのか、正直よく分からなかった。 ただ、その部屋に鎮座する冷たい柄を握りしめた時、ギンは漸く自分の内でどこかが安堵するのを感じていた。 「──お父はん」 まだ庭先で話し続ける男に、ギンが声を掛ける。 「──え、な…なんや。ちょっと待て。──ああ、また後でな」 そう言って慌てて携帯をしまい、ギンに向き直る。 「なんや、脅かすなや。仕事の電話しとったんがわからんのか。──なんか用か」 作り笑顔を浮かべる男に、ギンが笑う。 「仕事…か。──ボクを殺す算段の、か?」 「───っ!何言うてんねや…っ!なんでワシが自分の子ぉ…」 するりと突きつけられた言葉に男の顔が引き攣る。 次の瞬間、月明かりに映し出されたその子供の顔を見て、思わず背筋に冷たいものが走った。 なんだ、この子は───。なぜ、笑っているんだ──? 実の親が自分を殺す算段をしているのを知って…、どうして笑える……? こいつは──狂しいのか───!? ───ザシュ……と。 凍り付く思考の中で、彼はその音を聞いた。 「………がっ………っ」 驚きと共に声にならない音が吐き出される。 次の瞬間、腹から零れ落ちる温い液体。 それが、血だと認識した時には既に冷たいものが体を貫いていた。 「……あんた、ホンマのアホやな…。敵陣で手の内明かすような事したら殺られても文句言えへんで…?」 懐から聞こえる冷たい声に、思わずその体を掴む。 ──と、ドンと足下を蹴られその手が離れた。 体を支える一本の刃。自分の腹から突き出たそれが月明かりで黒く濡れているのが見える。 「……ギ…ン、お前………っ!親父に……ごふっ……!」 「──気安ぅ呼ばんといて。なにが親父や。極道に血ィなんか関係あらへん。──それを教えてくれたんは他でもないアンタやろ」 まるで蔑むような言葉と共に、唯一体を支えていた刃がずるりと抜き取られる。 どさりと崩れ落ちる体を見つめる妖しい二つの光。 月光よりも尚蒼く、氷よりも冷たいその瞳───。 それが、男が見た最後の光景だった。 「あんた、遅かった……っ」 ガタンと立った物音に、そう言って振り返った女の顔が怖ろしものを見たように引き攣った。 「──どない…したん──?」 全身どす黒い血に塗れながら薄っすらと笑う子供───。 「……ひっ……!ギ…ン…、あんた……」 その異様な光景に恐怖で引き攣りながらも、何とか平静を保とうと絞り出すように口にする。 目の前に佇む血塗れの子供。それが、自分が産んだ子だと認識するのに時間が掛かる。 なぜ──この子はこんなに血だらけなのだろう──。 先程言っていた刺客がもう来たとでも言うのだろうか。 でも、この本家に寄越すには無理があると、さっき夫は言わなかったか───? 混乱した頭で彼女がまず考えたのは、息子が誰かに殺されかけたと言う事だった。 なぜ、どうして、ここに───。 恨み言でも言いにきたのか───。 そこで、ようやく庭先に居るはずの夫の事に思い当たる。 そして、ふと視線を移した先に殺されかかったはずの息子の手に握られた長い刀身が映った。 ポタポタと板の間に垂れるまだ真新しい赤───。 ゆっくりと視線を上げてぶつかった氷の様な笑み。 この瞬間、ようやく彼女は理解した。その血がこの子のものなどではないと言う事を───。 「…ひ……っ きゃぁぁぁぁぁぁああああーーーーーっ!」 思わず背を向けて隣の部屋へと駆け込む。 その背に、熱いものが走った。 ダンっと、体が畳に沈む。耳のすぐ横に心臓があるかのようにドクドクという音が聞こえる。 一瞬、何が起こったのかさえ解らなかった。 「…ああ、逃げんといて。──なあ、お母はん」 はんなりとした優しげな声で母と呼ぶ声。だが、その声色は酷く冷たく、そして怖ろしかった。 「ひっ……あ…っ」 ぜいぜいと荒くなる呼吸を呑み込んで、動かなくなった体を懸命に前へと進ませる。 この瞬間、彼女は全て理解していた。あの血は……夫のものなのだと。 そして、この子が──自分の息子が、彼を手にかけたのだと。 ゆらりと、後ろで動く気配がする。 力の入らなくなった首をなんとか動かして、彼女はぐるりと自分の子を見上げた。 「なにを…するの…っ!あんた…母親を……っ、手ェかけるん…かっ!」 ありったけの憎悪を込めて自分を斬りつけた子供を睨み付ける。 目に映るのは、氷のような笑みを湛え、冷たい双眸で自分を見下ろす子供───。 これが、自分の子だという感情はどこにもなかった。 生まれた時から、自分はこの子が嫌いだった。 なんの因果か、白子の特徴が色濃く出た赤ん坊。 気持ち悪いと、素直にそう思った。 母親としての勘なのか、それとも自分の中にもある血なのか。 この子のなかに潜む性質が怖ろしいものを含んでいる事を、自分は──自分だけはわかっていた。 あの男は……あの馬鹿な男は、そんな事に気づかなかっただろう。彼はただ、結婚してさえも夫に、父親になれるような男でなかっただけだ。でも──自分は、違う。 ただ、この子が怖かったのだ。怖かったから、排除したかったのだ。 捨てたのは…構わなかったのは──愛情を注げなかったのは……全てこの子自身のせいなのだ。 贅沢を望んで何が悪いの。権力を望むのは悪い事なの。私は今ですらこんなに美しいのに。 誰もが私を望んで足下にひれ伏してきた。どんな男も。欲しいもの好きなもの、贅をつくした生活──。 それを、どうして邪魔するの。産んであげた恩も忘れて───。 「…ごふっ……っ」 口元から熱い血が零れ出る。 憎悪の目で睨む母親と冷たい目で見下ろす子供。 それは……本当は逆の筈だったのに───。 「…母親……?ホンマあんたら似たもん夫婦やなぁ。死ぬ間際まで同じ事言うんかぃ。…あいつもさっき言うとったで、『親父に何するんや』…て」 彼女の全身から発する憎悪の感情を受けてさえ、怯むどころか呆れたようにギンが嗤った。 「──ギ…ン……」 「ボクにはな、親なんか最初からおらへんねん。もっと早ぅこうすれば良かったて今後悔しとる所や」 「あん、た……っ!…あんたなんかっ…、早よ殺し…とけば…良かったん、やっ!赤ん坊のころに…、うち、がっ…!」 「──せやな。でも、もう遅いねん。…それにな、今こうしとっても、ボクにはなぁんの感情もないんや。…もっと色々あるんかと思うたけど…実際はこんなもんやな」 呪詛を吐きながら横たわる母親を見下ろして不思議そうにギンが言う。その言葉に戦慄を覚えて女が声を発した。 「………ギ、ン───っ!」 「ボクに子供としての情でも期待してるん?…残念やったな…。 どうも、みんなが望むも望まんも…、ボク性根から極道やったみたいや…」 チキっと鍔を鳴らしてギンが降ろしていた刀を振り上げる。 そのまま、何の感慨もなく刃を振り下ろすと、スイカを割るような音を立てて辺り一面に鮮血が飛び散る。 最後に見た我が子の笑みに長い悲鳴を上げた女は、その瞬間、事切れた。 「───ギン!」 静かな月夜に響き渡る長い悲鳴を聞きつけて、離れに駆け込んだ藍染が見たものは、まさに血の海だった。 庭先に転がる父親であった男の無惨な姿を見た時からある程度予想はしていたものの、それは想像を遙かに超えた惨状だった。 真新しい畳にも、襖にも──そして、ギンの顔体にも──。一面に塗りたくられた狂気の赤。 その──思わず目を背けたくなるような残骸の前で、ギンが背を向けて静かに佇んでいた。 「──若!?いらっしゃるんですか!?…一体なにが……ひっ!」 一緒に飛び込んできた若衆が目の前の惨状に思わず声を上げる。それを瞳で制して藍染がギンに声を掛けた。 「……ギン」 ゆらりと振り向いたギンの瞳を思わず見つめる。 一瞬、正気を逸脱しているのかと思わせるように、何も映してはいない硝子のような瞳。 だが、まさか──と思う藍染を余所に、ギンは一瞬藍染を見据えてから、すっと後ろで控える若衆に声をかけた。 「ぼーっとしとらんで、早よ医者呼び。心臓麻痺で倒れよった言うてな…」 透き通るような冷たい声。この場に居る誰も逆らえない程の威厳をもったその声。 「え…あ、は、はいっ」 それに突き動かされるように、固まっていた若衆が母屋へと取って返す。 遅れて駆けつけた他の若衆達が騒わめく中、ゆっくりと元柳斎が姿を見せた。 「主らは下がっておれ…」 「…は」 そう言って、草履も脱がずに三和土を上がる。 「……ギン……」 今だ刀を握りしめたまま佇むギンに労るように声を掛ける。 それに、ギンは一つ瞬きを落とすと市丸の長を振り仰いだ。 「…これで火種は消えるやろ。後…あいつの携帯履歴調べといてんか。直前までボクん事殺る算段してたから、腕の一本でも落としたらさすがに吐くやろ。金の流れ辿れば芋づる式に出てくるはずや」 淡々と話すギンに元柳斎が頷いた。 「わかった。それはこっちで手配しよう。───ギン……」 元柳斎の声色に、続く言葉の先を読んだかのように、ギンがゆるく首を振る。 「…あやまらんといて。単にうるさい思うたからや…。でも、これで文句言うやつおらんようになるやろ」 そう言ってギンは誰にも視線を向けずに部屋を出て行く。 すでに運ばれた後なのか、手に掛けた男の亡骸は既に無く、下生えに散る血溜まりだけがその惨状を物語る。 すうっと大きく息を吸い込むと、辺りに漂う血臭がギンの鼻腔を刺激する。 これが、自分なのだと思う。ここが、自分が生きる世界なのだと。 この体に流れる血───。それを、今自分はここで断ち切った。 怖れも、悲しみも、憐憫もなにもない。ただ、あるのは、静かな闇だけ。 その闇に向かって、ギンは自ら血溜まりを踏み込んだ。 [NEXT] |
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