──天上の華 血の烙印 2──




道場で、市丸の話を聞いてから数日後───。
一護はとあるビルの前で、ぼんやりと立ち尽くしていた。
都心の一等地にあるそのビルは、作りもモダンで一見どこかの商業施設にすら見える。
だが、そこに出入りしている人間をじっと観察すれば、決して此処がまともな会社であるとは誰も言えないだろう。
ぼんやりとビルを見上げていた一護は、気合いを入れるように一度肩を上げ下ろし、小さく「よしっ」と呟いてからエントランスをくぐった。
エレベーターで目的の階まで行こうとしたが、表示は十階までしかない。
仕方なく十の数字を押すと、エレベーターはゆっくりと上昇を始めた。
チンっと小気味よい音を立ててドアがするりと開く。目の前にはエントランスと同様、だだっ広い空間が広がっていた。
唯一違うのは、その先にある重厚な作りのドアだった。他にエレベーターか階段があるはずとキョロキョロ見回してみたけれど、そんなものは一見して見当たらなかった。一瞬躊躇したが、そこを叩かない事にはこの先には進めない。
仕方なく覚悟を決めてドアを叩くと、少しの沈黙の後重いドアが開かれた。
「あ?誰や、ワレ」
思いのほか厳つい。
目つきの悪いチンピラ風情の男に、些か辟易しながらも、一護はさくっと用件だけ告げた。
「藍染さんに用があってきたんだけど。今、いる?」
うん。丁寧じゃあない。年歯もいかない自分のような人間にタメ口で親分の名を出されては、相手にとっては心証を悪くするだけだ。
それは解ってはいたけれど、そんな事に構う余裕など、今の一護にはなかった。
散々悩んで決心して。それでここまできたのだ。悪いが、ただの取り次ぎの機嫌にまで構う余裕などこれっぽっちも持ち合わせてはいなかった。
「ああッ!?誰や、お前!ここはお前みたな餓鬼がくる所じゃねぇんだ、とっととうせろ!」
そう言ってドアを閉めかける男に、ガンっと靴を滑り込ませて寸での所で扉が閉まるのを阻止する。
こういうの、刑事ドラマとかであったよなぁ…と、この場ではどうでもいい事を一護は考えていた。
「いいから。悪ぃけど、俺、今余裕ないんだわ。市丸んとこの黒崎が来たって言やぁわかるから、さっさと取り付いでくれねぇかな?」
「はぁ!?」
本当にこれが藍染の部下か?と思うほどもの分かりが悪い。さて、どうしようか…と思った一護に、その男の後ろから、別の男が顔を出した。
「オラ!お前、どけっ!…失礼しました。黒崎…一護様でいらっしゃいますか?」
新たに顔を出した男は、そう言っていっそ恐縮するくらいに頭を下げた。
いやいや、そこまでしてもらわなくても…とは思うが、なんかもうすべてが面倒くさい。これが極道の様式美なのかどうかは知らないが、こんな所でモタモタしていたらせっかくの決心が鈍ってしまう…と、一護は若干急ぐように言葉を発した。
「ああ、悪いけど、藍染さんに会いたいんだ。急に訪ねてきて悪いとは思うけど……。で、いる?」
「すぐ連絡を取りますので、今しばらくお待ち下さい。すみません、コイツ最近はいったばかりでして…後からきっちり言い聞かせておきますんで、どうかご容赦を…。さ、どうぞ」
「あー…はい」
逆らうのも遠慮するのも面倒なので、一護は促されるまま中に入った。
先ほどまで一護を餓鬼扱いしていた男はいっそ可哀想なまでに恐縮しきっている。ごめんな…とも思うけれど、恫喝された側からすれば気にすんなとも言いたくはない。そうこうしているうちに連絡が取れたのか、奥の部屋へと案内された。
「お待たせ致しました。こちらのエレベーターからどうぞ。お部屋は最上階になります。ご案内いたします」
「すいません」
案内されたエレベーターに乗り込むと、一気に上昇を始める。非常時にはどうするんだろうな…とぼんやりと考えているうちに、エレベーターは最上階に着いた。
「お連れいたしました」
軽いノックの後そう告げた男に、扉の奥から「どうぞ」と低い声が聞こえた。
その声に、男は一護を振り返って頷いた。
そして、一護だけ残して男はまたエレベーターに乗り込む。
扉の前に一人残されて、一護はふうっと大きく息を吐いた。
自分のこの判断が正しかったのかどうかは解らない。でも、何もしないよりはいいと一護は自分に言い聞かせて漸くその重い扉を開いた。


「やあ、どうした?君から訪ねてくれるなんて、嬉しいね」
椅子の背もたれにゆったりと身体を預けていた藍染は、一護を迎え入れると同時にするりと立ち上がって、手前のソファセットに一護を促した。
それに、急に訪ねてきた非礼を詫びながら、一護はすぐさま用件を切り出した。
「藍染さんに聞きたいことがあって…」
「まあ、座りなさい。お茶を入れてあげよう。これでも私は紅茶に五月蠅くてね。なかなか美味しいと思うよ」
腰を落ち着ける事なくそう言う一護に、藍染は鷹揚に笑って一護に座るよう勧めた。
「あ…はい……」
のんびりとそういう藍染に、一護は不本意ながらも素直に頷いた。
なんだか自分だけが焦っているようで、少しばかり恥ずかしかった。勢い込んでここに来てみたものの、まだどう切り出そうかとも迷っていた。
サイドボードから、ポットやカップを取り出してお茶の準備を始める藍染を見るとも無しに見ながら、一護は乱菊から告げられた台詞をずっと考えていた。


あの話を自分の中でどう処理すればいいのか、正直一護には解らなかった。
混乱していると言った方が正しいだろう。
聞いた当日は、市丸と顔を合わせるのですら困惑した。
彼の事が嫌だとか。そういった負の感情があった訳では決して無い。
それどころか、市丸が人を殺めたという事に対して、不謹慎だとは思いながらも、不思議と嫌悪感は沸かなかった。
それが、人として犯してはならない一線を超えた事だという認識はある。
ただ、それが実感として、今目の前の市丸とどうしてもうまく結びつかなかった。
たとえ彼が人殺しでも、自分はこの男をずっと愛するのだろうと、彼が極道だと知った時に漠然と思った。
だが、それが現実のものとして降りかかってきた今、その事実を自分の中でどう処理していいか一護には解らなかったのだ。
頭と気持ちの整理がつかないまま、そして、市丸には済まないと思いながらもどうしても考えずにはいられなかった。
あきらかに様子がおかしい自分に、市丸は何も言わない。それどころか、計らずとも市丸を避けるような形になっている自分にすら、市丸は変わらず優しいのだ。きっと、嫌な思いをさせているのだろうに。
一護の気持ちを察するように、あれから市丸は急に仕事だと言って外へと出る事が多くなった。
帰りも深夜になる事が多く、時には朝まで帰ってこない時もあった。
顔を合わせれば相変わらず優しいし、態度も今までとまったく変わりがない。
だが、あれから市丸とは一度も肌を合わせてはいなかった。
さすがに、いつまでもこのままでいていい訳ではない。
悩みに悩んだ末、一護は乱菊に連絡を取った。
相談相手にするのはイヅルでもよかったのだけれど…、この事に関しては、なぜかイヅルよりも乱菊の方がいいだろうとなんの根拠もなく一護は確信していた。
そして。やはり乱菊は事の次第を知っていた。
「もう、大変だったのよ、ウジウジ・グジグジ、女の腐ったのみたいに」と、乱菊は恋次をばっさりと切って捨てた。
そういえば、あれから道場にも顔を出していないと、初めて一護は気が付いた。
きっとみんな心配しているだろう。一角も弓親も…そして、恋次も。
そんな事にすら、今の今まで気づかなかった事に一護は自分で自分が情けなくなり…そして、ごめんなと、一護はそっと胸の内で呟いた。

「で?どこ行くの?」
鮮やかにハンドルを捌きながら、乱菊が助手席の一護に問いかけた。
一人では中々外出すら許されない一護が、どうしても自分を連れ出して欲しいと乱菊に連絡を入れたのは昨日の事。
何処へ行くにしても、市丸お抱えの運転手…という名の目付がいてはさすがに市丸に内緒で動くのには限界がある。
そこで一護が頼ったのが乱菊だった。
乱菊ならば怪しまれずに一護を連れ出せる。そう思っての事だったが、ふと、もしかしたらもう市丸は全てを知っているんじゃないかという気もしていた。
「一護?」
再び問いかけられて、一護は決心するようにくっと下唇を噛みしめた。
「…藍染さんのとこ…」
あのお披露目の席で、一度しか会った事のない藍染の名を出す事に、不審に思われはしないかという一護の心配を余所に、乱菊はチラリと一護に視線を移した後、カラリとした声で、「了解」とハンドルを切った。

珍しく空いている都市高を飛ばしながら、乱菊は音楽に合わせて鼻歌を歌っていた。
その横顔をちらりと盗み見て、一護は重い気持ちを吐き出すように乱菊に言った。
「なんも…聞かねぇの…?」
きっと乱菊からは、根堀葉堀聞かれるだろうと思っていた。
それが予想外に、行き先だけ聞くと乱菊はその話題には一切触れてはこなかった。
痺れを切らしたのは一護の方だ。
気遣われているのはよく解ったが、その気遣いすら今は重い。
かと言って、色々突っ込まれてもどう話していいかすらよく解らない。
我ながら無茶苦茶だな…と思いながら、一護はシートに沈み込んだ。
「聞いて欲しいんなら聞くわよ?」
「…やな言い方すんな…」
まるで子供のように口を尖らせる一護に、くすっと笑いかけて乱菊が続けた。
「──いい選択だと思うわよ」
「え…?」
「藍染組長」
「…そっか…」
その一言で、ここ何日か悩み続けた気持ちが、少しだけ軽くなった気がした。
「耳に入ってきた以上、なかった事にはできないでしょう。本当はギンに直接聞くのが一番だと思う。でもそれも勇気いるわよね、アンタも…そして、ギンも。あたし…一護はあたしに聞いてくるのかと思ってたわ」
「うん…。それは俺も少し考えた」
正直、本当は迷ったのだ。乱菊ならば気心も知れているし話やすい。そしてきっと、もっと突っ込めば相談にも乗ってくれるだろう。
だが、今回その相手は乱菊ではないと、一護は思っていた。
「よかった」
乱菊の言葉に、一護は何の事かというように首を傾げる。それに、乱菊は思いも掛けない事を言った。
「一護が思いの外冷静でよかったって意味よ」
「え?…たぶん…俺今、結構グルグルしてると思うぜ…?」
「うん、表面…はね。まあ、それは仕方ないわよ。誰だってあんな事いきなり聞かされたら動揺だってするわ。そうじゃなくて…ちゃんと一護がブレてないって事がわかっただけでも安心だわ」
乱菊の言葉の意味を計りかねて、凝視する一護に、乱菊は前を向いたままふっと笑みを零した。
「今はわかんなくていいわよ。…ううん、アンタは本当はわかってると思う。ちゃんと自分で考えて、もう自分で選んでるの。ま、いいわ。そろそろ着くわよ。あたしはあんなトコ居たくないからショッピングでもしてこよーっと。帰りは迎えに来てあげるから、終わったら携帯に連絡しなさいね」

そうして一護は、藍染の所有するビルの前に放り出された。



「で?」
一護の前に淹れたての紅茶を差し出して、漸く腰を落ち着けた藍染が促した。
いよいよ核心に入ると、一護は少し居住まいを正して、藍染に向き直った。
それでも、やはり声は自信なさげなものになってしまう。
「うん…。ギンの…両親の事…」
絞り出すようにそう言った一護に、訪ねてきていきなり禁忌とされる話題を出されたはずの藍染は、別段驚いた風もなく鷹揚に笑って答えた。
「ああ…。なんだ、阿散井君からでも耳に入ったかい?」
「なんでそれを…」
いきなり言い当てられて目を白黒させる一護に、藍染が含み笑いを落とした。
「簡単な事だよ。君にそんな話をして得する人間なんて誰もいないだろう?ヘタにギンの耳にでも入ればどうなるかくらい莫迦でもわかる。ギン自身が君に告げたのなら、今君はここにはいないだろうしね。可能性があるとすれば、阿散井君が口を滑らせた事くらいだ」
「なるほど…」
確かに。そう言われればそれもそうかと思う。
だとしたら、恋次はよっぽどのバカだと言う事だ。うん、それは間違いない。
「なぜ、私の所に?」
そう聞いた藍染の瞳が、一瞬だけ凄味を増した気がした。それに気が引き締まる思いで、一護はゆっくりと自身の気持ちを探るように口を開いた。
「たぶん…。藍染さんが一番客観的に事実だけ言ってくれると思ったから。本当は、ギンに直接聞くべきだっていうのは分かってる。でも…その前に…。何があったのか、事実だけ…知りたいんだ」
そう、一護が何よりも知りたかったのはその『事実』だけ。
曖昧な噂などではなく。悲壮感や英雄談などではなく。だれの思惑も、意思も入らない、客観的な『出来事の羅列』。
それだけが、知りたかった。
そこに入る感情の主は、一護にとってはたった一人だけでいい。

「本当…なのか…?」
事情を全て知っているであろう藍染に、一護はそう切り込んだ。
「…君が何をどう聞いたかは分からないが…。ギンが実の親を殺したのかと聞くのなら、本当だ」
そこに返ってきた藍染の言葉は、やはり一護が藍染に抱いた印象通りに的確で辛辣なものだった。
きっとこの男は一切の妥協も甘い情も許さない。一護を気遣う為の言葉も、慰めも、横たわる事実の前には無用だと斬り捨てられる冷たさがある。あの披露目の会で藍染と初めて顔を合わせた時、一護に対する柔らかい態度とは裏腹に、市丸に対するある意味ゾッとする冷たさを一護は意識する事もなく正確に見抜いていた。この男が極道なのだと、自身の感覚で確信したのはその時だ。
だが、その非情なまでの冷たさが、今の一護には有り難かった。
「なんで……」
ありのままの事実を告げる藍染に、思わずそう零した。
それは、一護の素直な疑問だった。実の親を手に掛ける…。その事自体が、一護にはどうしても感情的に理解できなかった。
そこには一体なにがあったのか。どんな事情があったのか。一角や弓親から聞いたように、ただ、親が組に謀反を起こしたからという単純な理由ではないはずだ。それを聞いた所で、自分に理解できるかは解らなかったけれど、それでも知りたかった。今は、藍染の口から。
だが、一護に答えた藍染の言葉は、それすらもいっそ突き放した答えだった。
「なぜ?本当の理由など、ギンにしか分からないよ。ただ、起こった出来事だけ言えば、──あの二人は、親になれるような人間ではなかった。ギンが生まれた頃から育児放棄でね。その為、ギンは本家に引き取られて育てられたんだ。だから、血の繋がった親だとは言っても、ギンにとっては他人と同じ感覚でしかなかっただろう」
「育児…放棄…?」
育児放棄───ネグレクト──。
今では時折ニュースで耳にする言葉。それは、引いては虐待をも意味する言葉だと一護は認識している。
そして悲しいかな、ニュースになる時には、子供の死亡という最悪の形で報道されていた。
「それって…ギンが……」
今の市丸からは、虐待という言葉など想像もつかない。
だが、そんな一護に藍染はさらりと恐ろしい言葉を発した。
「誰だって赤ん坊の時は無力なものだよ。この私すらね。君だって赤子の時には、四六時中親に構われて育ったんだ。私は実際に子はいないし、育児などしたこともないが、赤子がどれほど無力なものなのかは想像できるだろう?適度な栄養と愛情、そして細やかな世話。それなくしては子は育たない。ギンは、生まれて間もない赤子の時期に、それら一切を放棄された。実の親からね。まあ、君には想像のつかない世界だろう。君の場合は有り余る愛情を受けてきた事は誰が見てもわかるしね」
「そんな……」
そんな親が居る事は知っていた。だが、それはあくまでもニュースソースとして、だ。
子供はすべからく望んで生まれる訳ではないということも、知識としては知っている。だが、それが身近な人間に降りかかっていたのだと想像できるほど、一護は不幸な育ちはしていなかった。
「まあ、今はギンもあの通り無事に育っているんだから、君が”今"心を痛めても仕方ないよ。いち早くそれに気づいて本家に引き取ったのは、松本くんのご母堂だしね」
「え…?」
「彼女とギンの関係は聞いているだろう?当時、夫と死別して生まれたばかりの彼女と本家に身を寄せていたのが、松本くんの母上だ。まあ、妾腹とはいえ、総長にとっては実の娘だしね。そしてギンは直系の曾孫にあたる。だから、何かの行事ごとにつけ、顔を合わせる機会も多かったんだろう。赤子の成長などは、男は気づかなくとも、女親はそうは誤魔化せないといういい見本だろうね。特に…ギンと松本くんは月齢も変わらないから、余計に不審に思うふしはあったんだろう」
「じゃあ…乱菊さんの親って、ギンの育ての親ってこと?」
その疑問に藍染は笑って頷いた。
「まあ、そういう事になるだろうね」
だからか…と、漸く一護は腑に落ちた。
一護自身、両親が一人っ子同士で、祖父母も生まれた頃には無くなっていた為、親戚付き合いをした事など一度もない。
もちろん、兄弟などいない。その為か、血縁というものの付き合いがどういうものなのか一切知らずに育ってきていた。
市丸と乱菊のある意味、他を寄せ付けない親密さを、最初一護は勘違いした事を思い出す。
兄妹同然だという市丸と乱菊の言葉も、納得しながらもどこか信じ切れてはいなかった。
口では辛辣な言葉を吐きながらも、市丸は乱菊を気に掛けている。そして、乱菊も、市丸の事を大事に思っているのは一護も知っていた。
どんなに自分を愛してくれていると知っていても。二人の他愛ない掛け合いを見るたびに、心が騒めいていたのは確かだ。
「兄妹同然って…そういう意味だったのか……」
ぽつりと零した一護の言葉に、恐らく一護の内を見抜いたであろう藍染が笑った。
「君が何を心配してるのかはわかるがね…。むしろギンが好いてるのは、松本くんのご母堂の方だよ。静さんといってね。今は深川で料亭をやってる。今度顔を見せにいくといいよ。ああ、余談だが、彼女の再婚相手は日番谷くんの先代付きでね。先代と一緒に事故で亡くなったんだよ」
「え…じゃあ…、乱菊さんは冬獅郎んとことも関わりあるって事…だよな?」
「ああ。今彼女が名乗っている『松本』は、その彼の名字だよ。だから日番谷くんは、彼女を『松本』と呼び捨てるだろう?日番谷組は先代が市丸の最高幹部だった事もあるが、それ以上に市丸との縁故の関係にあるんだよ。…っとまあ、これは今は関係ないね。話を戻そうか」
そう言って藍染は一護に微笑みかけた。
複雑に絡んだ市丸の家系。
おそらくそれは各組の序列にも呼応し、きっとそれは自分も無関係ではいられないのだと思う。
だが、それはあと回しだと、一護は今目の前にある『事実』にだけ集中するように、一度深く息を吐いた。
「ごめん、藍染さん。今色々聞いちまうと、俺頭こんがらがっちまうんだ」
素直にそう述べた一護にまたも藍染が笑う。
そして、話は漸く佳境へと移っていった。

「少しは聞いているかも知れないが、ギンが彼らを手に掛けたのは、彼らが跡目を狙ってギンをその座から引き摺り降ろそうと動いていたからだ。あの頃、まだギンは子供だったんだが、すでに総長はギンを三代目に据えるつもりでいた。その為の教育係として私は本家に呼ばれていた。だが、当然それを良しとしない人間もいた。その最たる者が彼の両親だったという訳だ。彼の父親は私の目からみても、下らない男でね。到底一家を束ねる器ではなかった。だが、そういう人間ほど、身の丈知らずな野望を持つものなんだよ」
野望───。それを、実の子に向ける親。
跡目争いだとは聞かされていた。でも、血の繋がった…ましてや我が子を亡き者にしてまでも、果たされるべき野望など実際にあるのだろうか。
藍染の言葉に納得できないというように顔をしかめた一護に、藍染はするりと疑問を投げかけてきた。
「一護くん。今、君の目の前に1億あるとしよう。君はどうする?」
「え……。どうするって……」
ただ漠然と、見たこともない金額を示されて「どうする」と言われても、一護には答えようが無い。
素直に言うならば、想像がつかないので解らないという事だけだ。
藍染に答えを求められて、ドキマギする一護に、当の質問を投げかけた藍染がクスクスと笑った。
「ああ…、君にはこんな質問は無駄だったね。君なら全額寄付するとでもいいかねないし」
「え、いや、俺そんな善人じゃないっすよ。人並みに物欲くらいあるし…」
とりあえず、好きな漫画や本を買って…趣味のシルバーアクセも買って…前から欲しかったベルトと服も……と、考えた所で、とうてい1億には足りないだろうな…と思った。
まあ、あって損する事はないかもしれないが、なくても別に困らないだろうと思う。大体、一般のサラリーマンの生涯年収は3億っていうし…とぼんやり考えていた一護に、藍染は人の悪い笑みを浮かべてさっくりと爆弾を放った。
「一護くん。君が意識していないって事は十分に解ったけど、『市丸』の総資産が莫大な額にのぼるのは知ってるのかい?」
「は?」
「もちろん、組関係の資産だけではなく、市丸家個人の資産だって相当なものだよ。そして…裏における権力もね。
…人間はね、結局は自分の内にある欲には逆らえない。人に寄ってはそれが金であり、女であり…権力でもある。
もちろん、その全てを欲しがる者もいる。いや、突き詰めればそれが大半だ。こんな商売をしてるとね、そういう人間など山ほどいる事がわかる。まあ、そういう輩につけ込むのが我々のやり方でもある。そして…能力がない者ほど高望みに走る」
蕩々と語る藍染の言葉を、一護は口を挟まずにじっと聞いていた。
世の中そんな人間ばかりじゃないと一護は思う。だが、人の業ともいえる欲深さを間近で見てきたであろう藍染に、そんな台詞を投げつけても一笑に付されるだけだろう。
藍染のこの厭世的な考えは共感できなかったが、おそらくそれを差し引いたとしても、市丸の両親は彼の目から見て
『そういう人間』だったのだろう。
「…なあ、藍染さん。藍染さんから見て…ギンの親ってどういう人だった?」
「『事実』だけ聞きたいんじゃなかったかい?」
そう意地悪く笑って、それでも藍染は答えてくれた。いとも簡潔に。
「無能」
「む…」
「無能・屑・莫迦なくせに自分には力があると思っている……。まあ、典型的な俗物だよ。あの総長とギンの血縁とも思えないだろう?」
「そ…っか……」
藍染がここまで悪し様に言うという事は、もしかすると藍染とも少なからず何か確執があったのかも知れない。
実際若い頃に本家に居た訳だし、その時の立場からすればたぶん藍染の方が下にあたる。生きている彼らと実際に顔を付き合わせていれば、当然藍染にとって軽蔑の対象にはなるだろうな…と想像しながら一護は頷いた。
そして藍染の言うように、市丸の両親がそんな人間だったなら。目の前にぶら下がる『餌』に食いつかない訳がない。
「じゃあ、ギンが抗争を止めたっていうのは…」
「表立ってはいなかったがね。火種は既に燻っていた。もちろん、総長も気づかれてはいたし、それを止めるべく動いてもいた。だが、結局、事が大きくなる前にギンがその元凶を手に掛けたからね」
「なんで…。一体何があったんだ?」
その日。あの家で。
幼かった市丸を凶行に駆り立てたもの。それは一体なんだったのか───。
だが、藍染は、一護の疑問に無情にも首を振った。
「さあ。あの日、私も本家にいた一人だが…、実際ギンがなぜあの時彼らを斬ったのか、本当の所はギンにしかわからないよ。表に見える事実だけを言えば、あの日は久しぶりに彼らが本家を訪れていて、その夜ギンが日本刀で彼らを斬り殺した。私が知っている事実は、それだけだ」
「日本刀…で…」
「ああ…。酷い有様だったよ。辺り一面血の海でね…。母親の方は、原型すら留めていなかった。一番先に駆けつけたのは私だが…。一瞬、ギンの気がふれているのかと思ったくらいだ」
「そんな…」
その時の事を思い出したように、藍染は一瞬遠い目をしたあと、それを振り切るようにゆるく頭を振った。
辺り一面の赤───。
一護にとっては、作られた映像でしか見たことがない、それ。
実際の場面を目撃した藍染にとってもそれは、一生忘れられない凄惨な光景だったに違いない。
そして、僅かな沈黙の後、藍染はこれで全て話終えたというように、一護に向かって言った。
「一護くん。君も言った通り、私は単に見たままを伝えたに過ぎない。本当に真実が知りたければ、ギンに直接聞きなさい。起こった出来事と、真実は決して同じではないよ。それは、分かるね」
その言葉に、一護はしっかりと頷く。
「ああ…。分かってる。───ありがとう、藍染さん」
そう言って微笑んだ一護の顔には、一切の迷いが消えていた。



藍染の事務所を出た後、乱菊から送ってもらって家に帰り着いた一護は、出迎えの若衆に生返事を返したまま自室へと引き取っていた。
なにかあったのかと心配する若衆に、イヅルは「そっとしておけ」と首を振った。
「ですが……!」
「いい」
一護の様子に、心配して様子を見に行こうとした若衆をイヅルが止める。
「…組長と…なんかあったんですか…?」
その質問に、イヅルは笑って首を振った。
ここ何日か、二人の様子がおかしいという事は組の誰もが気づいていた。
単なる喧嘩とも違い、お互い避けるように過ごしているのは誰の目にもあきらかだった。
この組の人間は、皆一護の事を気に入っている。
それは、単なる市丸の伴侶という立場だからだけでなく、一護自身を好いているのはイヅルも知っていた。
だからこその心配なのだとイヅルは微笑ましい気持ちで、まだ年若い彼らに言い聞かせるようにきっぱりと言った。
「大丈夫だ。あの二人が少々の事で崩れる訳がないだろう?一護くんは、根っからの堅気の子だ。それが、こんな芯からの極道の家に入ったんだ。相容れない事だって沢山あるだろう。それは…あの二人自身で解決するしかない問題だ。お前達は余計な口出しせずに、ただ見守っていればいい。それしか…できない。自分達にはね」
「……はい」
ぐっと唇を噛む男に、イヅルは大丈夫だというように肩を叩いた。
きっと、誰もが願っている。
あの二人が、二人で居られる事を。
そしてイヅルも───。
側付きとして長年市丸を間近で見てきたものだからこそ。
尚更強く、そう願っていた。




夜も更けた頃になって、漸く市丸が帰ってきた。
寝室の続きの和室に、市丸の気配を感じて、一護は横になっていた身体を起こすとカラリと引き戸を開けた。
間接照明が灯る座敷はがらんとしていて、一護は市丸の姿を探して縁側へと視線を向けた。
一風呂浴びた所なのだろう、しっとりと濡れた髪にさらりとした着流し姿で、市丸はぼんやりと庭の方を向いて座っていた。

「こっちおいで一護ちゃん」
一護に気づいた市丸が、おいでおいでと手を振る。
「……うん」
それに一護は素直に頷いて市丸の隣に座った。
板の間には酒の盆が置いてあり、市丸は猪口を手にしながらそれを掲げて一護ににっこりと笑った。
「たまには縁側で飲むんもおつなもんやろ?」
そう言って市丸はまた、夜空へと視線を遊ばせる。

「呑む?」と聞かれて、「じゃあ一杯だけ」と答えると、綺麗な花緑青の小さな猪口を渡された。
ツンと香る日本酒の香りに、これだけでも酔いそうだなと思いながら口を付けると、ぬる燗のその酒は思ったよりも爽やかで口当たりもよかった。
ほうっと息をつく一護に、市丸が可笑しそうに笑った。
そして自分は手元の杯を煽ると、手酌でまた次を口に運ぶ。
月が綺麗だった。
こうして市丸と二人で、静かに月を眺めたのはいつ以来になるのだろうか。
実際は一週間も満たない時間でしかなかったけれど、一護にはずいぶんと久しぶりに思えた。
会話もなく過ぎる時間。
それでも、胸の仕えがとれたせいか、一護の心の中は酷く穏やかだった。

「……聞いたんやろ…?」
長い沈黙の後、市丸がぽつりと言った。
「うん…。ごめん。本当は俺直接お前に聞くべきだと思ったんだけど…」
そうできなかった自分を素直に詫びる。
その事で市丸が傷付いたのだとしたら、一護はいくらでも詫びるつもりだった。
それに市丸は微笑みながらゆるく首を振った。
「ええよ…。一護ちゃんがどう切り出そかて悩んでたんもわかってたし、ボクもな、ちゃんと言わなアカン思てたんやけど…。あんましして気持ちのええ話やないしな。…藍染さんちゃんと教えてくれはったやろ?」
その言葉に、やっぱり筒抜けだったかと思う。だが別にそれに対しては怒る気持ちにはなれなかった。
それを見越したように市丸が「全部が全部筒抜けな訳やないで」とフォローを入れてきた。
「うん…。たぶん…あの人が一番冷静に…状況だけ話してくれるだろうって思ったんだ。…ごめん」
そう言って再び頭を垂れた一護に、市丸の静かな声が響いた。
「ええから、謝らんといて。謝るんは…ボクの方や。ごめんな一護」
「なんで…」
その言葉に一護は弾かれたように顔を上げる。市丸が謝る事など何もないのに。そう言おうとした一護を視線で優しく遮って、市丸が続けた。
「やって…。一護には想像付かへんやろ。自分の親──斬り殺すて」
そうして、市丸は自身の手のひらにじっと視線を落とした。
「……ギン……」
「ボクの手はな、もう既に血に塗れとるんや…。その同じ手でボクは一護を抱いとる。その手で一護に触れて、一護を愛してんねや……」
普段の市丸からは想像もできない程の細い声。自身の手に視線を落としたまま、市丸は一度ぎゅっと拳を握り、またゆっくりと開いてその手を見つめた。
まるで……そこに、見えない血を見ているかのように。
その姿に居たたまれなくなった一護は、それを振り切るように市丸へと手を伸ばした。
市丸の手首をつかみ、驚いた顔で一護を凝視する市丸の視線を真っ向から見返す。
そして、ずっと言いたくて…言えなかった言葉を一護は漸く口にした。

「──ギン……。…教えてくれよ、ギン。なんでお前がそうしたのか。お前の気持ちが何処にあったのか…。お前にとっては辛い話かも知れないけど…。俺は、お前の気持ちが知りたいし…お前にとっての真実が知りたい…」
───『事実と真実は決して同じではないよ』
そう言った藍染の言葉を噛みしめる。
そう、一護にとって大事なのは、市丸にとっての真実。ただ、それだけだ。
それを正しく汲み取りたいと思ったからこそ、だれの思惑もない『事実』だけを先に知っておきたかった。
きっと、市丸にとっては辛い告白になるだろう。それでも、もう聞かずには先に進めない所まで自分達はきているのだと思った。
それは市丸にも解っていたのだろう。
長い沈黙の後、市丸がふうっと息を落とした。
「……ボクにとっての真実…か……。───長い話になるかも知れへんよ…」
「うん……」

そうして市丸は、重い口を開いた。




[NEXT]