![]() 「え?なに、一護ちゃん。どないしたん?なんや、爺様に会うてたん?」 そう聞いてくる市丸にも答える余裕がない。 「え…なんで、だって……」 いや、落ち着け、俺!と、一護は混乱した頭で自分を叱咤する。 確かに、勝手に勘違いしたのは自分だけど……。 でもそう思う根拠がなにかあったはず。──そう……。 「……だって、山本だって…、──『市丸』じゃないじゃん!」 再びそう叫んだ一護に、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる老人と、それに「ああ…」という市丸の声が聞こえる。 どういう事だと市丸を見上げると、柳眉をへにゃりと下げて市丸が言った。 「せやった、すっかり言うたもんやとばっかり思うてたわ。あんな、爺様の名字市丸やないねん。山本元柳斎重国いうんよ。時代劇かーいうくらい大層な名前やろ」 「え、なんで…」 いや、名字が違う事はあるけれど。でも確か父方の方の曾祖父じゃなかったかと、疑問に思う。 「前に言うた事あるやろ?この爺様、元は東の人間でな。若い頃ブイブイ言わせとったんや。市丸の家は、曾祖母様の方の家系でな。やっぱり同じ極道もんで、今のうちの組はそん時の『市丸組』が大元になっとるんよ。で、縁あって曾祖母様と結婚した時、婿には入ったんやけど、名字はそんまま山本使うたんよ。その方が通りがええ言うて。で、そん時の初代に恩義あってな、市丸の名ぁ消すわけいかん言うて組とその直系には市丸名乗らせてん」 「んなコト……先に言っとけよっ!」 人前だという事も忘れて市丸を怒鳴る一護に、市丸はいつものように「ごめんなぁ」と一護を宥めにかかった。 「爺様も人が悪いで。会うたんなら、ちゃんと自己紹介したらええですやん」 矛先をするりと元柳斎に向けて市丸が言う。 それに、悪戯が成功したというように満足げに笑う元柳斎は、その文句をするりと受け流した。 「主がきちんと話しておらんかったからじゃろう。儂はちゃんと山本と名乗ったでな」 そして、次の瞬間、どこか稚気を乗せた好々爺だった元柳斎の纏うものが一変する。 「──まあ、よい。改めて、儂が市丸一家の二代目総長、こ奴の曾祖父にあたる山本元柳斎重国じゃ」 元柳斎がそう声を発した途端、場の雰囲気がピリッと緊張した。 それに合わせて、一護も居住まいを正す。 曾祖父と楽しく歓談などという雰囲気などではとてもない。 市丸だけは相変わらず飄々としていたが、それでも背筋を伸ばしてきちんと対峙するその姿は、曾祖父とひ孫と いうよりも、一家の総長と次代という面持ちだった。 「雀部」 「はっ。──それでは、若」 先ほど到着を告げた男が名を呼ばれ、市丸を誘う。 それに一つ頷いて、市丸が元柳斎に向き直り、すっと畳に手を付く。 「此処に居りますのが、黒崎一護。ボクが市丸に迎え入れると決めた相手です。既に東の市丸組にて生活させとります。先達て向こうで披露目は済ませました。爺様には挨拶が遅れてしもうて、申し訳ありません。今回改めてお許し願いたく伺った次第です。どうぞよろしゅうに」 普段より改まった口調でそれだけ一気に言って、きっちりと頭を下げる。 それを横目で見て、一護も同時に一礼をした。 「ふん…。儂の許しなく、先に披露目まで済ませおって。…最初からそのつもりじゃったの?」 「いえいえ、滅相もない。たまたま向こうでそういう話になっただけです。爺様にはきちんと許しは得るつもりで居りましたで。せやから今こうして連れて来たはるんでしょ」 些か砕けた口調でにやりと口角を上げて言う市丸に、元柳斎がふんっと鼻を鳴らす。 「埒も無い事を…。まあよい。主じゃと話にならん。して…、」 一度言葉を切った元柳斎が、一護へと視線を移す。 「主はこちらへ。今回はの、主と一度話をせねばならぬと思うて呼んだのじゃからな」 そう言って、一護を側へと手招いた。 一度チラリと市丸を見上げると、視線で頷かれる。 大丈夫だと、その瞳が語っていた。 それに小さく頷いて、一護はすっと元柳斎の元へと歩み寄った。 どんな事を言われるのかとか、何を聞かれるのかとか。 不安が無いわけではなかったけれど。 先ほど一護と話していた元柳斎の言葉を一護は思い出す。 一護が一護であればいいと。 上辺を取り繕う言葉よりも、素直に一護らしさを出せと、そう自分に言ってくれた。 信じよう。 そして、素直に自分の気持ちを伝えよう。 そう思い、一度目を閉じて心を落ち着かせる。 そして再び目を開き、目の前の元柳斎をしっかりと見つめた一護の瞳には、もう迷いは消えていた。 「一護…と言うたかの?」 そう元柳斎が口を開く。 「…はい。黒崎一護です。一等賞の一に、守護の護と書きます」 そう言って一護が改めてきっちりと頭を下げる。 それに相好を崩しながら元柳斎が答えた。 「ふむ。守護…。一つを護る…か。良い名じゃな。主の両親は良い名を授けてくれたの」 「はい。俺もそう思います」 その目をきっちりと見返して一護がきっぱりと言う。響きはともかくとして、一護自身この名前の意味だけは誇れると自分で思う。そして──一護自身その名に恥じぬように生きていきたいと思っていた。 「それが主の心根か…。まあ、そう硬くならんでも良い。儂も久しぶりにただの爺扱いで気持ちが和んだわい」 先程の自分の態度を思い返して、一護は思わず顔を赤くした。 いくら知らなかったとはいえ、日本の極道界の頂点にすら立つ人間にあの態度はないだろうと恐縮する。 「……すみません…」 その一護の態度に大きく笑ってから、元柳斎は本題だというように居住まいを正した。 「時に、一護。主はこのギンの連れ合いだと言うが…。それは相違ないな?」 「爺様、やから…っ!」 「主は黙っておれ!儂は一護に聞いておるのじゃ!」 思わず口を挟んだ市丸を元柳斎がぴしりとした声で遮る。そして、再び答えを促すように一護に視線を向けた。 それに一護はきゅっと唇を引き結ぶと、いつもの照れも見せずにしっかりとした口調で言った。 「そうです。俺も…ギンも…男同士ですし、これが世間的に認められないというのも十分承知してます。 …それでも、俺はギンの事を真剣に思っていますし、ギンも…そうだと信じてます。ただ…ギンはこの市丸の跡取 りですし、それでなくとも反対されるお気持ちは俺も重々承知しています。でも、俺がギンを愛する気持ちだけは、誰が何と言おうと譲れません。ですから…俺はこの場で、ただ、許して欲しいとしか言えません」 「…一護ちゃん…」 普段は照れもあってか、こんな風に市丸への気持ちを堂々と現す事をしない一護が、あの元柳斎に対して一歩も 引くこともなく市丸への気持ちを告げる。 それだけ一護がこの自分の事を真剣に考えてくれているという事に、市丸もなんとしてもこれだけは譲れないと 再び口を開いた。 「爺様!ボクからもお願いします!ボクは今まで誰の事も愛せんかったし、誰の事も大事にしようなんて思うた事 なんてなかったんや。初めて…ホンマ生まれて初めてボクが大事や思うた人なんや一護は。やからたとえ世間が どう言おうと、爺様が何言おうと、ボクは一護しか受け入れへんし自分の一生かけて護りぬく覚悟でおる。 …ここで反対する言うんなら、ボクはこの市丸の名を今すぐ捨ててもええです。やから…これだけは、絶対に譲られへんのや」 「……ギン…」 市丸の強い言葉に、思わず一護の瞳が揺れる。その言葉に、たとえ…この場で元柳斎の逆鱗に触れたとしても 絶対に離れたくはないと強く思う。たとえそれが、市丸にその名を捨てさせる事になったとしても───。 そう思い、覚悟を決めたように強い眼差しで元柳斎を見つめる一護に、若い恋人同士の熱い思いを聞いていた元 柳斎はカカカっと笑って答えた。 「いい覚悟じゃわい。二人とも。…一護、心配せずとも良い。儂の時代はの、衆道なんざ日常茶飯事だったわい。 …まあ、かく言う儂も男の愛人がおった事もあるしな」 そう言って笑う元柳斎に、初めてその事実を知った市丸が目を剥いた。 「ホンマですのん!?」 「ほっほっほ。まあ、戦後はな、欧米文化が一般化しおってだんだんとそういう風習も薄れて来たがの。 古来日本は、そういう事には寛容な国よ。じゃからの、一護、それを理由に反対する事は儂はせんよ」 「──ありがとうございます」 元柳斎の言葉に一護も、そして市丸もきっちりと頭を垂れる。 だが、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、その二人を見据えながら元柳斎が厳しい視線を向けた。 「──だがの、一護。本当の話はここからじゃ。主の選んだ男は、この市丸の次代を継ぐ男。そしての、儂は こやつの爺ではなく、市丸の長として主と話をせねばならん」 空気に緊張を含ませて、一護にそう告げた元柳斎の眼光が鋭いものに変わる。 それに、クッと一度唇を噛んで、一護はしっかりと頷いた。 「──はい」 それを確認するかのように目を眇めて、元柳斎が口火を切った。 「一護よ…、主は、主がこれから棲む世界がどんな所か本当にわかっておるのか?極道の世界は、今まで主が 生きてきたような綺麗事だけではすまぬ世界よ。必要とあらば人を謀る事も平気でするし、人をこの手で殺める 事もある。儂はの、筋が通らぬ事は好かぬ。だがの、その筋さえ通れば人を殺める事も厭わぬ。儂らが棲む世界 はそういう場所よ。主が愛するというこれはそういう世界に棲む男じゃ。そんな男を本当に愛し添い遂げる事が主にできるか?こやつの為に主も同じ血に塗れる事ができるか?誰かを護ると言うのは主の心ではないのか? こやつと共に生きるという事は、主の信念すら曲げる事になるぞ。それでも良いのか?この世の修羅に自ら落ちる覚悟があって、その言葉言うておるのか!?」 今までの口調をがらりと変えて、一護に突きつけるように言う元柳斎の言葉を、一護は微動だにせずにじっと聞き 入る。 彼の言葉に綺麗事は一切無い。極道の世界の──暗く深い闇の部分を飾らない言葉でそのまま突きつける。 市丸と共にあるという事は、直接手を下さなくても一護の手も体もその血に塗れるという事なのだと元柳斎は言う。 そして──それは、誰がどう言い繕った所でその通りなのだろう。 一つのものを護りたいと、ずっと思ってきた。 いつしかそれは一つだけではなく、大勢の人を護りたいという願望に変わった。 この世界で、自分ができる事には限りがある。それでも──。 自分の目の前で起こる事柄にはなるべく力になりたいと、ずっと思ってきた。 極道の世界に本当に染まる事ができるのかと言われれば、今の一護には否としか言えない。 それでも、自分の信念を貫きながらも市丸の事だけは護り抜きたいと節に思う。 もしかして、いつの日にかそのギャップに悩む事もあるだろう。 自分の信念と市丸への想い──。 それが相容れない日がくるのかも知れない。それでも──。 今はただ、この男を護りたいと一護は思う。 たとえその手が血に塗れていても。 それでも、この男が…市丸が愛しいとそう思う。 他の誰よりも──何よりも、それがどんなに世間から非難されようとも。 今自分が一番護りたいのは市丸の心なのだ。 その自分の心に、嘘はない。 ぐっと決心を固めたように一護が元柳斎を見つめる。 そして、一護は意を決したように静かに口を開いた。 「──仰る事はわかります。確かに、俺はまだこの世界の事を何も知りません。そして…もしかするとこの先、 ギンのやる事に異を唱える事もあるかも知れません。それが、この極道の世界で当たり前に罷り通っている事だとしても、俺は俺の信念に基づいてギンに意見すると思います。そして──それはもしかするとそれはこの世界からみたら間違った考えなのかも知れません。それでも──、俺は俺自身の心に嘘は付けません。 俺が言う事は、綺麗事かもしれないけれど…間違った事は間違った事だと俺はやっぱり思うと思います。その上で、矛盾があるのは重々承知の上で、俺は…俺自身はギンを護りたいと思っています。力でも、立場でもなく、 この"市丸ギン"自身を護りたいんです。…すみません。今は──俺、それしか言えません」 一護の言葉をじっと聞いていた市丸、そして周りがゴクリと唾を呑む。 極道にとって、今まで生きてきた道を否定されると言うことは自分の面子──ひいては組としての面子を潰されたのと同義語だ。極道には極道としての信念があり、それは決して堅気と交わる事はない。 その堅気の人間としての気質を変えぬままに、この世界に身を置こうなどと、古くから居る極道にとっては許されぬ 事でしかない。 一護の言葉に口をはさまずに静かに佇むこの組の総長に、周囲の人間に不安が過ぎる。 「一護……」 長い沈黙の後、元柳斎が口を開く。 「主…、そこまで言うからには覚悟はできておろうな…?」 どうするのかと固唾を呑んで見守っていた周りに、一気に緊張が走った。 その言葉に、一護の後ろに控えていた市丸が腰を浮かせる。 「爺様っ!!!」 「そちは控えておれっ!」 そう言って、床の間にあった真剣を取ると、鞘を振り捨てて、目にもとまらぬ早さで一護の首筋に切っ先を充てた。 しんっと静まり返った部屋に緊張の糸がピンっと張り詰める。 誰も、口を開く事ができなかった。 市丸すらも──動く事ができない。 もしここで自分が動けば、その間に一護の首が撥ねられる可能性がある。 元柳斎は昔堅気の、古い極道の見本のような人間だ。 いくら跡取りの連れ合いとはいえ、この世界を否定するような台詞を目の前で言われて黙っていられる訳がない。 一護が今告げた事は、一護が思ってきた真実なのだろうと言う事はわかる。 だが、この昔堅気の極道の頂点に立つ男の前で言い切るには、危険すぎる言葉である事には違いない。 真っ青になりながら、どうしたらいいのかと必死で頭を巡らせる市丸を余所に、元柳斎の腕にぐっと力が入った。 「主…今自分が何を言うたかわかっておるのか…?」 ピリピリとした空気を漂わせながら言う元柳斎に、一護は畏れる事もせずに、その目を見据えたままきっぱりと 言い切った。 「……はい。これが、俺の本音です。俺は──ギンと生きる事に一つの迷いもありません。ギンの──苦しみも、 悲しみも…愛も…俺が全部受け止めたいと思っています。確かに、極道の…この世界は俺に相容れない部分は たくさんあるのは分かってます。俺に、極道になれというのなら──それは、できません。 でも…っ、相容れなくても、極道になれなくても、俺はギンの心を護りたいんです。あいつの心を癒したいんです。 ギンは俺が極道になる事なんて望んじゃいない。俺が俺のままであいつの側に居ることが、俺達にとって大事な 事なんです。それが許せないって言うんなら、今すぐここで俺の首を撥ねて下さい」 「──一護っ!?なに言うてんねやっっ!!」 たまらずに市丸が声を上げる。それを合図に、元柳斎の刀がチキリと手の中で鍔を鳴らした。 「…よう言うた。一護…主、その命を掛けてまで己の信念貫くと言うか。あやつの為にその一つしかない命すら 掛けるというか。その覚悟…誠に主にあると言うか…?」 「───…はい」 そう言って一護は元柳斎の目を見つめ、深く息を吸い込むと静かに目を閉じる。 今まで感じた事のないくらいの怖ろしい気迫。 自分の首筋に当たる刃の冷たい感触だけが、リアルに感じ取れる。 たった一つ不興を買っただけで、殺されるかも知れない相手。怖いと──素直にそう思う。 それでも──。 なぜか今、一護の中での気持ちはとても静かだった。 取り繕う気さえあれば、きっといくらでも機嫌を取る言葉を言えただろうと思う。 けれど──。たとえこの場で殺されたとしても、嘘だけは吐きたくなかった。 自分の市丸に対する思いはそんな簡単なものではない。 ただこの場をやり過ごす為に適当な言葉を並べたとしたら、きっと自分は後で後悔する事になるだろう。 後ろで市丸が歯がみしているのがヒシヒシと伝わる。今すぐにでも飛び出したいのを必死で押さえているのが、 背中越しですら一護にもわかる。 ごめん……と思う。もう少し言葉を選んでいれば違う結果になったかも知れないと思うと、市丸に対して申し訳ない気持ちで一杯になる。 でも、きっと、気持ちは伝わっているだろうと一護は信じていた。 本当にここで殺されるのか。それとも首の皮一枚で繋がるのか──。 それは定かではないけれど、でも、これで市丸との仲は確実に裂かれるだろう。 一護が目を閉じて、実際にはどのくらいの時間が過ぎたのか。 ぐっと首筋当たる刃に力が入ったのを感じて、一護はきゅっと唇を噛んだ。 ───が。いつまで経ってもそれが振り下ろされる気配がなかった。 それどころか、いつの間にか冷たかった刃の感触が消えている。 恐る恐る目を見開くと、そこには刀身を降ろした元柳斎が静かに佇んでいた。 「………爺…さん……」 信じられないものを見たと言うように一護がぽつりと零す。 思わず市丸の総長に対する言葉ではなく、先程会ったあの老人に対する言葉にすり替わる。 それすらも自分で気づかないまま一護は不思議なものを見るような目で、じっと元柳斎を見つめていた。 「……く……っ。ふふふ……はははははっ……!いや、愉快じゃ!この元柳斎長生きしてよかったと思うぞ!」 一護の目を見ながら元柳斎が楽しそうに笑う。 それをぽかんと見ながら、急に一護の腰ががくんと抜けた。 「一護ちゃん!! 大丈夫か!?しっかりしぃ!──ちょっとジジイ!何て事するんやっ!例えアンタでも 許さへんでっ!!」 一護の側に駆け寄り、しっかりと支えながら市丸が噛み付く。 「い…市丸様っ!」 その言いぐさに青かった顔をさらに青ざめさせて、イヅルが咎めるように叫んだ。 「ふん…。許さんとはの。何を言うか小童が。怖れをなして動けなんだわ、そちじゃろう。この一護の方がよほど 胆が座っておるわ」 そう言って楽しそうに笑う元柳斎をギッと睨んで、市丸は腕の中に一護を抱き込んだ。 「…ボクが一歩でも動けば、即座に斬りつけるつもりしてたくせによう言うわ。ええか、クソジジイ。一護ちゃん斬り つけてたら、今頃ボクとあんたで殺し合いや。──それ、分かってたんやろな」 どす黒いものを纏わせながら言う市丸に、元柳斎が面白そうに笑う。幾多の修羅場をくぐり抜けた屈強の男ですら怯む程の市丸の殺気すら、子供の稚気のようにいなす元柳斎は、やはりこの市丸の曾祖父であり、この国の極道を背負って立つ男だった。 「儂と殺し合いか。言うようになったのう。それくらいの気骨が漸く主にも出たか。面倒事はのらりくらりと躱しおった頃とは大違いじゃ。──一護」 「え……はい……」 呆然として市丸に身体を預けながら、一護が乾いた声を出した。 「主の覚悟はよう分かった。今時にない骨のある子よの。主になら安心してこの組任せられそうぞ」 「……え……。は……?」 「ちょっと、組任すて何言うてんねや!一護ちゃんも今言うたやろ!ボクも一護ちゃんは、一切組には関わらせる つもりないで!」 一護の驚きと、市丸の言葉をまるっと無視して元柳斎は鞘を手に取り、チンっという小気味よい音を立てて刀を収める。そして再び床の間にそれを戻すと、呆けている一護の前に腰を下ろし向かい合った。 「一護。よいか。極道はの、この世界に身を沈めた男だけの世界ではない。それを支えるものがあっての世界じゃ。 その支えが強ければ強い程、男は強うなる。それは何も力だけの事ではない。真に極道に必要なのは、何者にも侵されぬ強い心──信念よ。確かに儂らは汚い。だがの、それを支えるものの目が濁っていては駄目なんじゃ。 主は、強い。強くて、清廉な心を持っておる。それはの、きっとこ奴にとって良い影響になろうぞ。極道の連れ合い が極道になる必要はない。だが、これと一緒にこの組を支える柱になってくれんかの。 主の為ならきっと、こ奴も…そして将来この組を支える若い衆も、付いて行く事じゃろうて」 「……爺さん……」 「ふふん。この年になってまた新たなひ孫ができるとは思うておらんかったぞ。一護、主にはもう親も家族も無いで あったな。なら、これからは儂が主の爺じゃ。この『市丸』が主の新たな家族じゃ。それで良いな?一護」 元柳斎の言葉を市丸に支えられながら聞く一護の髪に、元柳斎が嗄れた手を伸ばしゆっくりと撫でる。 先程のピリピリとした空気が柔らかく和み、漸く控えていたイヅル達にも緊張の糸が解れ出す。 一護も優しげに語る元柳斎の言葉に、じっと耳を傾けながらその言葉を噛みしめるように深く聞き入っている。 ───が。一人だけ、その和やかな空気に反してピリついた空気を纏う男が居た。言わずと知れた市丸ギンだ。 「ジジイ……。さっきから何勝手な事抜かしよんねん…。ボクと一護ちゃんの事認める言うんなら、最初から素直に認めたらええやろ。──どうせ、初めから一護ちゃん気に入っとったくせに、何しよんねん。あんな怖い思い一護ちゃんにさせて、このボクが只で済ます思うんか…?」 思い切り不穏を滲ませて言う市丸に、一護が焦ったように振りかぶる。 「──ギン!もういいって…!」 それに市丸は不機嫌さを隠すでもなく首を振る。 「ようない。大体何が一護ちゃんの爺や。言う事が一々やらしいんや、このクソジジイは。いい加減枯れてまえ!」 「ギン!お前何言って……。頭おかしいぞ!?お前!」 「おかしない。ええか一護。このジジイが年寄りや言うて油断したらアカンで!?一護ちゃん、このジジイのばっちりド真ん中ストライクなんやから!」 「ば……っ!何て事言うんだよっ!いいじゃねえかっ!俺だって家族って言われて嬉しいんだしっ…!」 さっきまでの緊張が一気に解れたのか、自分の曾祖父にまで牽制するような事を言い出した市丸に、一護は若干の呆れを乗せながら諫める声を上げる。 市丸の心が狭いのは十分知っているつもりだが、さすがにそこまで考えるなど、一護にしてみればバカとしか言いようがない。 「……えっと…、じぃ…総長……」 市丸を纏いつかせたまま、一護が元柳斎に視線を向ける。 「爺でよい。…なんじゃ」 「うん…あの……」 口を開きかけ、一護がまた、きゅっと口を閉じる。 そして、一護に纏わりつく市丸に視線を落として、きっぱりと言った。 「──ギン、離せ」 「…一護?」 一護の口調に真剣なものを感じ取ったのだろう、市丸がするりと腕を放す。 どうしたというように一護を見つめる市丸に、一護は一つ頷いて微笑んだ。 そして、きちんと居住まいを正すと、元柳斎に向かって手を付いた。 「これから、世話になります」 そう言って深々とお辞儀をする。 その一護を見ていた市丸は、チラリと元柳斎に視線を投げてから、自分も一護の横へと正座した。 「……ボクからも。今後とも、よろしゅうお頼申します」 真剣な眼差しでそう告げて、頭を垂れる市丸の姿に、元柳斎はふと白髭に隠れた口元を上げた。 誰の為でも、自分の為ですら、本当の意味で人に頭を垂れる事など、今までこのひ孫は一度足りとてした事は なかった。 人の感情を置き忘れた子であるという事は、誰よりも元柳斎が一番よく知っている。 どんな事にも、市丸の生の感情が動くという事などなく、芯から何かを欲した事もない。 本当の喜びも、悲しみも知らず、空虚だったその心。 それを──。今この目の前の、輝く光を纏った子が変えた。 これからこの一護が棲む世界は、本当の地獄。いつ何時、生命の危機が訪れるやも知れない世界。 その為の後ろ盾は大きければ大きいほど良い。 その為に、こうして市丸は元柳斎に頭を下げる。 ただ、一護を護りたいと。それだけの為に。 「──承知した」 その心を受け取って、元柳斎が頷く。 そして、次の間に控える側近達に向かって声を発する。 「──よいか。たった今から、この一護は市丸の人間じゃ。主らも、そう思うて存分に仕えよ。…異論はあるかの?」 総長からの言葉に、みな一斉に頭を下げる。 ただ一人、側に控えていた雀部にちらりと視線を向けると、雀部はそれを受けて僅かに目を上げ、この場を代表するように言った。 「有り難く、承りましてございます」 「ふむ」 それに鷹揚に頷いて、元柳斎は改めて一護に視線を落とした。 「一護。これを頼んだぞ。何かあれば儂に言うてくるがよい。主の前では、儂もただの爺じゃ」 「……ありがとう、──爺さん」 目元を綻ばせてそう言う元柳斎に、一護がにっこりと笑う。 それは、一護が持つ魂の輝きのように、一片の曇りもなく晴れやかな笑顔だった。 「あーーー、…っかれたぁーーーーっ!」 ごろんと畳に寝転がって、真っ赤にした顔でケラケラと笑う一護に、市丸がふうっと肩を竦めた。 「ほら、一護ちゃん!こんなトコで眠ってまうと風邪引くよ?ベッドいこ?」 「えー、畳、気持ちいい〜」 上機嫌でゴロゴロと転がる一護に、市丸は些か頭を抱えた。 一体、誰だ。一護にこんなに飲ませたのはっ! と、考えて、まあ今日は仕方ないかと思う。 元柳斎との会見が、些か問題はあったものの──滞りなく終わり、同席していた面子も交えて、夕餉の席に移った後。 そのまま祝宴だと称されて、皆に酒が振る舞われた。 今夜は無礼講だからと元柳斎が言った時点で、大体の予測は付いていた。 今日、この屋敷に控えているものは、市丸も昔からの顔なじみが多い。 今回の事を見越してのこの面子だったのだろうが、良くも悪くも市丸の性格と所業を知る人間が、漸く市丸自身が迎え入れた伴侶に興味津々なのも、そしてすっかり出来上がった輩が、良かったと泣き喚く事も。 市丸には半ば予想はできていた。 そして、一護も。 最初は頑なに拒んでいた杯も、入れ替わり立ち替わり勧められて、仕方なく一口、口を付けた瞬間から。 怒濤の如く押し寄せる輩に、次々と杯を注がれて。 瞬く間に、顔を真っ赤にして立派な酔っぱらいと化してしまった。 普段なら、一護の事を考えて止めに入るのだが、今日だけは市丸はそれを黙認していた。 もちろん、一護の様子はちゃんと気にしていたのだが。 元柳斎との会見は、一護にとっては酷く緊張を強いられた事だろう。 こちらに帰ると言った時から、一護が密かにそれに思い悩んでいたのは当然市丸も承知していた。 直接一護に会わせれば、恐らく反対はすまい。…どころか、絶対、ただのジジイに成り下がるくらい気に入るだろうと思ってはいたが、そこは腐っても市丸の長だけあって、その長の顔で一護に詰め寄ってきた。 一護の首に刀を突きつけられた時、絶対にそれを引かないという確信はあったものの、やはり肝が冷えたのは市丸も同じだ。そして、直接それを突きつけられた一護は、どれほどだっただろう。 その緊張が一気に解き放たれ、本当に心から安心しきった笑顔を見せる一護に、今日だけは酔いの力を借りてでも、肩の力を抜かせてやりたかった。 「…もう、ほら、運ぶで?って、こら、逃げんの!」 「え〜、やらっ!」 潤んだ瞳で市丸を見上げて、駄々っ子のように可愛く言う一護に、くらりと目眩が起こる。 桜色に染まる肌も、拗ねるように尖らせた口元も、濡れた瞳も。どうしても無意識に誘われているようでならない。 いっそこのまま犯してやろうかと思う。 市丸の手から逃れるように身体を捩る一護に、市丸はふうっとため息を落として、その手首をぐっと掴んだ。 「……ほぇ…?」 「…一護……」 真っ赤な顔をして、あどけない表情で市丸を見上げてくる一護に、市丸が強引に唇を奪う。 「ん…っ」 僅かに開いた唇から覗く歯列に舌を這わせると、一護の口が誘うように開かれる。 市丸の愛撫に慣れた身体は、無意識になればなる程、望んだ反応を返す。 それに気分を良くして、するりと一護の中に舌を潜り込ませて口腔内を貪ると、酔いが回っているせいなのか、一護からも積極的に舌を絡めてきた。 「んん…、んっ」 甘く鼻を鳴らしながら口づけを享受する一護の後ろ頭を、そっと抱え上げて角度を深くする。 しばらくして、絡め合っていた一護の舌の力がふっと抜け、え…と思う間もなく、ガクンと顎が天井を向く。 「…は…?え、一護…?」 力が抜けた身体をそのまま市丸に預けて、一護はくうくうと寝息を立てていた。 「………。そりゃないやろ…一護……」 たった今。可愛らしく反応を返していたというのに。 一護を抱きかかえたまま、がっくりと肩を落とした市丸の腕の中で、その一護は幸せそうな顔をして、すやすやと眠っていた。 このソノ気になった身体をどうしてくれる!?と、思わず一護を恨んだが、「ムニャムニャ…」と小さく寝言まで言い出す姿に思わず微苦笑する。 「まあ、しゃあないか…」 愛しい愛しい一護。 市丸の為にいらぬ緊張まで強いられて、それでも目一杯頑張ってくれたのだから、酒と疲れで爆睡するのも当然といえるだろう。 「二人で愛を確認したかったんになあ…」 そう言って、一護の額にそっと口づける。 さすがにこれで眠る身体に続きを強要すれば、畜生にも劣る行為だな…と思い、市丸は口元を歪める。 そんな事は──今まで散々やってきたというのに。 愛する者に無体は働けない。この一時の休息を存分に与えてやりたい。 一護に出会ってから、そして、一護を愛してから、初めて自分の中に沸き起こった感情。 ───愛する者を護り、慈しむ行為。 慈愛という名の優しい愛。 それを自分に教えてくれたのは、一護だ。 「──嬉しかったで、一護」 元柳斎に向かって、一護が言った言葉の数々。 一護の口から、あんな風にはっきりと一護自身の気持ちと考えを聞いたのは、正直これが初めてだった。 この世界に無理矢理一護を引きずり込んだのは、自分。 一護を手に入れると決めた時から、一護の状況も気持ちも無視して事を運んだのは他でもない市丸だ。 市丸の為に無理矢理変えられてしまった環境を、それでも一護は愛というその心だけを拠り所に、全てを許容し 受け入れてくれた。 その状況を作り出したのが自分であるからこそ、聞くことができなかった一護の真意。 ただ、愛しいと思う。 「………ん……」 眠りに意識を奪われた一護が、市丸の胸にすり…と顔をすり寄せる。 無意識の媚態が可愛いらしい。 起こさぬようしっかりと抱え直して、ベッドへと運ぶ。 寝やすいように着衣を緩め、上掛けを掛けると、ベッドの淵に座って太陽のような温かな髪をそっと梳く。 指に絡む柔らかな髪に視線を落とし、愛しげに微笑む市丸の指先が、ふと止まる。 一護を見つめる微笑みはそのままに、自身の指先に視線を移した市丸の瞳には、苦悶の表情が宿っていた。 [NEXT] |
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