天上の華 2




あの後───

男の作り出す雰囲気に飲み込まれたまま硬直してしまった一護を、事もあろうにこの店まで
送り届けたのは他ならぬその妖怪だった

あの時、一護は、生まれて初めて、本当に死を覚悟をした

いや…今となっては、その覚悟すらあやうい
なにせ、まったく動かなかったのだから、体が
闇を纏った男を前に、動かなくなった体を呪いながら… 
ああ…きっと俺はここで死ぬんだな…と思った
それ程、目の前の男は冷たく異質で────
それでも、だんだんと近寄ってくる男から目を離せずに……
ただ、ぼんやりと

もう一度その目をちゃんと開けてくれないかな…と的外れな事を思っていた


だが、ギリギリまで一護の前に近づいたその男は、もの珍しそうに一護の瞳を
覗き込んだ後、ふっと視線をそらして自分の左手首を見つめていた

そして………

「なあ、キミ もしかしてどっかのお店の子違うの?」

と、
生死を覚悟?していた一護に、ひどくのんびりと気の抜けた声で問いかけたのだ


『は…?』
『やから、今の時間にここおるっちゅーことは、ダレかと待ち合わせか、若い新人君くらいやろ』
『え…と、バイトですけど…』
『ああ、やっぱりな』

一気に気が抜けたのか…現実に返ったのか
思えば、殺される覚悟をした割にはずいぶん呆けた返答をしてたと思う
しかし、なぜこの男がそんな事を言うのか分からずに僅かに動いた首をかしげていると…

『時間、たぶん、とっくに過ぎとるよ』
と、ひどく現実的でのんびりとした声が聞こえた


『時間…?』
『うん ああ、あかん本格的に呆けてもうた』
ぶつぶつと長身を折り曲げて、一護の顔を覗き込むその狐面に頭の隅で
(時間ってなんだっけ)とぼんやり考えた
それにかまわず男はすでに聞き慣れてしまった関西のイントネーションで次々と言い募った
『ねえ、ちょっとキミ、大丈夫?』
『バイトくんやとこの時間やったら完全遅刻ちゃうの』
『変なとこみせてもうて悪かった思うけど…途中で入ってきたのキミやからね』

など

つらつらと、さっきまでの人物と同じだとは思えないような饒舌で色々と捲し立てる

そのなかで…
やっと一護が正気に返ったのは───

『このままやと、キミ”クビ”になるかもしれへんよ?』

と言う、今考えればいとも情けない一言だった

『……クビ……?』
ようやく思考が働きだした一護に、先程までとはまるで別人のように眉をハの字にさげて、
男は一護の顔を覗き込んだ
『うん あんま言いたないけど、新人のバイトくんやったら店始まる準備せな
あかんのやないの?』
『…うん…する…けど』
呆けた頭で考える

店に入って一月
録に接客もできない一護は、どちらかというと雑用の方が気が楽で
しかも、処理能力だけは、思っていたより高かったらしく、今ではどちらかというと
事務仕事の方がメインになりつつあった

この世界に入って初めて知ったのだけど、店のマスターやオーナー(は会ったことないけど)は
なにも店が始まる前からせっせと準備をする訳ではない、ということ

店の清掃を済ませて、客のおしぼりや灰皿をととのえて──

マスター達は時には、店の看板を降ろしたあと、長年の常連さんたちと飲むこともあるらしく…
そんな翌日には、店に入ったとたんに…どっと疲労が押し寄せるくらいの乱れっぷりが
展開されている
今からこれを片付けて、本当に開店に間に合うのか!と思うこともしばしば
でも、そんな前日の匂いを今日に持ち越すのは、水商売の最大の御法度だ
そして───そういう雑用の一切合切を引き受けているのが今の一護だった

『もう、行ったほうがええんちゃう?』

自分のやらなければならない仕事をぼんやり反芻していた一護は、男のその言葉に
はっと我に返った

『行く…って………ああああああ!時間!!!!』

とたんに、今の現実が押し寄せる
改めて腕時計で時間を確認すると、今の時点すでに15分の遅刻
うわっやばい、と思い走りだそうと踵を返そうとした途端、がくんと足の力が抜けた

やべ、コケる

そう思った瞬間力強い腕が一護の腕を取った
『あ〜、あっぶないなぁ自分 力入らへんのやろ、ほれ』
と言いながら転びかけた一護を背後から両腕が支えた
『あ、ありがと…』

転倒を間一髪支えてくれた腕の持ち主に礼をいいとっさに振り返ると、目の前に
にゅいっと笑った狐顔があった

『!!!うわっ!』
あまりの顔の近さに一護が驚いて声をあげると、その狐は人の悪い笑みをさらに深くする
『そんなに逃げんでもええやん もう自分で立てる?』
『え、ああ、もう…大丈夫…だと思う』
『まあ…しゃあないな…へんなとこ見せてもうてゴメンな』
一応顔だけは心底申し訳なさそうに柳眉を八の字に下げて言う男の顔をしげしげと
見つめながら、一護はようやく全身を覆っていた緊張がほぐれてきた

『あ…いや… それより俺もう行かねえと…』
『ああ…せやなぁ』
『………えーっと……だから、もう行くんで』
『うんうん 早よしたほうがええね』
『……えっと…なんで、腕離してくれませんかね?』
『いやや』
きっぱりと拒絶の言葉を吐きにっこりと笑う狐顔
『はっ!?』
『せやから、いやや言うたんよ』
『…いや…って』
『やってキミ抱き心地ええんやもん』

その場でさらに何分か、『離せ!!』『いやや〜』という言葉と共に攻防を繰り返し、
疲労困憊した一護に『しゃあないから一緒に言ってあやまったげるわ』と、
諸悪の根源にずるずる引き摺られてようやく店に到着

結局、先輩にはがっつり怒られたものの、言葉通り男の方からなんらかの説明があったのか
店の方からのお咎めは一切なかった
ただ、マスターの方から一言『災難だったねぇ』と心底同情した様に言われた


…という事があり…

そして、今、一護の目の前で諸悪の根源の狐の妖怪がにこにこと笑っていた

「な…!なんであんたがココにいるんだ!」
思わず大声で指さしてしまう

「ええ〜、ボク飲みにきたらあかんの?」
「いや…っ!そうじゃなくて…」

これ以上係わりたくないだけです

そう心の中で呟けば、それを見越したように狐は人の悪い笑みを深くしながら
「だってボクここのオーナーさんとはお知り合いやもん」
と、一護にとって強烈な爆弾を投下した

「うそ…」
店…やめようかな…

「あ!今お店やめようかとか考えたやろ」
「!なんで分か…っ!いや、とにかくそれはいいとして…!指名なんかすんな!」
「なんでぇ?ええやん、ボクとお話しよ?」
「オキャクサマ ココハホストクラブデハゴザイマセン」
と、狐を睨みながら、心底あきれたように棒読みで返す一護に狐はげらげら笑い出す
なんだかもう馬鹿らしくなってしまった一護は、もう相手をするしかないと諦めて男の前に立った

「あははは!ごめんなぁ〜 でもなんかキミのこと気に入ってもうてん」
「いや、お気になさらず」
そう言って無表情に返すもこの狐はまったく堪えない
「ほらほら、オキャクサマにそんな無表情はあかんやろ キミもなんか飲む?」
「いえ、結構です」
確かに、会いたくなかったとはいえ一応仕事中
いつまでも拗ねてる訳にもいかず、失礼にならない程度に返す

「あっそ ならオレンジジュースちょうだい」
「…もしかして…俺のっスか…」
「そ」
だからいらねぇ!と叫びたいのを堪えて、心の中で呪文の様に『仕事、仕事』と繰り返す
仕方なくジュースを入れたグラスを取って戻ると、なにが楽しいのか相変わらず狐はにこにこ
したままだ

「イタダキマス」
と取り敢えず返事を返すと、狐は僅かに柳眉を顰める
「とりあえず、敬語でしゃべるんはやめ」
「いえ、でもお客サマですんで」
「まあ…そうやけど、この前の時点ですでに敬語やなかったやんキミ」

「それと今とじゃ状況が違うだろーーっ…デスよ?」
何を言い出すんだこの狐は!と思い思わず怒鳴りつけようとしたため、敬語どころか
日本語まで変になってしまった一護に、狐が大爆笑する

「あーーーーはははっ!もう!キミおかしすぎやっ!
もうええやん普通に話したほうが楽なんちゃう?」

よほどツボに入ったのか、カウンターをバンバン叩きながら悶絶している狐に、
一護も、なんかもういいか、と思ってしまう
どうせ冷たくしようが、意地を張ろうが、この狐には微塵も堪えない気がするし
だったら、普通に接した方が気も楽だ

そう思い、肩の力を抜いた一護を下から見上げながら
「可愛えなあキミ」
そう言って狐がくすくす笑う
「いや、可愛いとか言われても嬉しくねーし」
思わず口を尖らせた一護を見て、また楽しそうに笑う

なんだか、あの時と印象が違いすぎてとっさに本当に同一人物か?と思ってしまう
いや…こんな根性悪い狐がもう一人いるなんて、そっちの方がよほど恐い
あの時見たのは夢か幻かと思うくらい、この目の前の男は良く笑う
いや、もともと笑った顔なのだが、その笑顔がどうにも胡散臭い
でも今は心底楽しそうだなーと一護はぼんやりと思う

「ああ楽し ボクこんなん笑うたん久しぶりや」
「そりゃ良かった…って、俺”で”笑うな!」
そう一護が言うと狐はまた「やっておかしいんやもん」とくすくす笑った

「まあ、ええやん ところでソレ天然?」
ひとしきり笑い終えた後で狐がいささか唐突に聞いてきた

「その髪」
と一護の髪を指す

毎度聞かれ慣れているとはいえ、やっぱり話題はソコかよと思ってしまうのは仕方ない
でもそう聞いてくる男こそ、珍しい見事な銀髪だ それも、恐らく天然の
あんたにだけは言われたくねーよと思いながら、負けじと一護も切り返した

「…じゃあ、アンタは染めてんのかよ」
そう言った一護に一瞬固まったあと男の顔にだんだんと笑みが広まり

「……ぷっ!あはははは!ホンマおもろい子ぉやなキミは!
ちゃうよ コレは生まれつきや って事はキミもかいな」
なにが男のツボに入ったのか、げらげら笑い出した 心底楽しそうに

というかああ、やっぱりコイツ分かってて聞いてきたんだなと思い
一護の口が自然と尖る

「…悪いかよ」
「いいや 悪ないよ全然 よう似おうとる」
さらりと褒められて一瞬言葉が詰まる
難癖をつけられたり、遠巻きに見られたり、と普通に生きていく上で結構面倒なこの髪の色
それでも一護自身は自分のこの色が好きだった
遠い昔…『一護の髪はお日様色だね 大好きだよ』と自分が大好きだった人がいつも
褒めてくれた髪

他人から揶揄われたことはあっても、面と向かって褒められたことはないから、
思わず嬉しいと感じてしまう

「あ…ありがとよ…」
たぶん本気で言ってくれたのだと言うことが分かって思わず顔が赤くなる
自分でも分かるくらい熱くなった頬を見られたくなくて一護はそっぽを向きながら呟いた

その様子に男が満足げに微笑む
「顔まっかやで」
顔を背けているため男の表情は見えないが、声がにやにやしている
「っつ!うるせえよ…」
赤くなった顔を揶揄われて一護の口が再び尖る

「あらら、また機嫌悪なった」
「あんたが揶揄うからだろ!」
「やってキミ可愛えんやもん」
「男に可愛い言うな!」
「えー、ええやん 男やろうがなんやろうが可愛えもんは可愛え」
「〜〜っ だから何度も言うな!」

男二人が可愛いの可愛くないのとまるで掛け合い漫才のように言い合っている
むなしさがこの男にはわからないのだろうか
案の定そしらぬ顔はしているが、周りがみんな聞き耳を立てているのが分かる

普段の一護は仕事だと割り切っているため、こんな風にあからさまに感情を露わにはしない
それがまた物珍しさを誘っているのだと言うことに、幸か不幸か一護が気づくことはなかった

「そや 忘れとった」
「え?」
「キミお名前は?」
「へ?」
唐突に話題を変えるのは、この男の常なのだろうか
そのため、一護は男の言葉について行けずに間抜けな声で聞き返した
そんな一護を気にするでもなく飄々とした態で言葉を続ける

「この前聞き忘れとったから気になってん こうやって仲良うなったんやから教えて?」
「仲良く…って、別に仲良くなんかねぇけど…」
この状況のどこが「仲が良い」のだか
別に名前くらい聞かれれば答えるが、どうしてこう一々突っ込み所満載な台詞が付いてくるのか
いささか呆れたように呟く一護をまったく意に介せず男は尚も言い募る

「まあそれはおいといて で、なんて言うのん?」
特に隠すこともないので素直に答える
「一護」

「…こりゃまた…えらい可愛らし…」
「果物の苺じゃねえ!一等賞の一に守護の護で一護!」
男が口を開いた途端、絶対そうくるだろうとの予想通りの台詞に被せたように一護が言う

「そっかぁ 一護ちゃんか ええ名やね」
「おう!ありがとよ」
尚も揶揄われるだろうなという予想に反して、男の揶揄いを一切含まない声で
自分の名を褒められた一護は、素直に礼を返す
その様子に満足げに笑いながら男が腕時計を覗き込んだ

「さて、そろそろ帰らな」
「え…もう…?今来たばっかりだろ」
早く帰れと思っていたのに、いざ帰ると言われてなぜかだかわからないが
一護は引き留めの台詞を吐いた

「なんやボクが帰るんが寂しいん?」
「バ…っ!寂しくなんかねぇよ!」
そう言ってにやにや笑う男に一護の声が上がる
「ボクももうちょっとゆっくりしたいんやけど、今日はそうもいかんのや
今度またゆっくり来るわ」
そう言って男はカウンターの端にいたマスターに何か目配せをすると
またね〜一護ちゃんと言ってヒラヒラを手を振って、さっさと席を立つ

「ちゃん付けすんなっ!…って、ちょっと待って!」
その姿を呆然と見送っていた一護は、はっと思い立ち店を出ようとする男の背中を
追いかけた

「ん?何?」
ドアノブに手をかけて、追いかけてきた一護を肩越しに振り返って男が首を傾げる

「名前…」
「ん?」
なにか言いよどむように一護の声が小さくなるのに怪訝そうに返すと、
一護は何か逡巡するようにきゅっと唇をかんだ後、思い切った様に顔をあげて
男の目をみながらきっぱりと言った

「あんたの 俺のだけ聞いて自分は教えないつもりかよ 名前、なんて言うんだ?」

不意を突かれたようにキョトンとした顔をして固まる男に一護が眉間の皺を深くする

「なんだよ」
文句でもあるのかと言いたげな一護に、いささか呆然とした様子の男が口を開いた

「……いいや… なんもない……ギンや」
「…ギン?」
「…せや ギン 市丸ギン」
「市丸…ギン」
口の中で転がすように男の名前を反芻する
「うん ギンでええよ」

「ん 俺は黒崎 黒崎一護」
「……ああ……あかん…」
「え?」
ぼそりと呟かれた声に一護が首を傾げる
「いや…なんもない…ほんならまたな 一護ちゃん」
そういって男は───いや、市丸ギンは最後ににっこりと笑うと、そのまま踵をかえして
ドアに消えていった



僅かばかり歩いて、市丸は待たせてあった車に乗り込む
「お待たせイヅル」
「いえ」
助手席のイヅルが出せと無言で運転手に合図する
「もうよろしかったんですか?」
音もなく発進したあと僅かに体をひねってイヅルがバックシートの市丸に問いかけた

「なんや、時間無いから早よ帰ってこい言うたのは自分やろ」
「そうですが 思ったよりも早かったので驚いただけです」
「なんやソレ ボクが早よ帰って来るんがおかしい言うんか」
「いつものご自分の行動を振り返ってから言って下さい
早い所か時間通り帰ってきたことなんて無いじゃないですか」
ああ言えばこう言う
まったくこの従者は主を主とも思っていないんじゃないかと時々市丸は思う
はじめは神経質で気の弱そうな子供だったくせに、市丸と長年接しているおかげなのか
せいなのか、どんどんとしたたかで図太い性格になってしまった
しかも、イヅルの言っていることのほうが正論なので市丸は少々分が悪い
「ほんまイヅルはかわいくない」
ぼそっと呟けば
「かわいいと言われた方が引きます」
とこれまたかわいくない事をきっぱりと言われた

ふうっと一つため息を吐いてぼんやりと窓の外を見る

「まあ…今日はな…」
心ここに非ずという感じでぽつりと誰ともなしに呟く

名前聞いとこ思っただけやし 

「市丸様…?」
そんな市丸の様子に怪訝そうに声をかけたイヅルに
「少し寝るわ 着いたら起こして」
それだけ言って市丸は目を閉じた


目は閉じたものの市丸は実際眠った訳ではなかった
思い出すのは先程の光景
オレンジ色の髪をしたまだどこか幼さの残る子供

あんなに無防備だとは思わなかった

夜の世界は昼とは違い特殊だ
名前など単なる記号でしかなく、ただ個体を識別するためのもの
故に、本名を名乗る必要などどこにもなく、知る必要もない

だから
彼が『一護』と名乗った時市丸は当然のように本名だとは微塵も思わなかった

市丸がフルネームで名乗った為、反射的に自分も…と思ったのだろうが
『黒崎一護』と名乗られて初めて彼が最初から本名を名乗ってた事に気づく

いくらバイトだとはいえ一応水商売
あれではあまりにも無防備すぎる

「あかんやろ…あれは」

反則や……

物怖じしない真っ直ぐな視線
真っ直ぐな心

修羅場をくぐりぬけた屈強の男でさえ怯むほどの殺気を纏った自分を、
怯えながらも真っ直ぐに見続けた強い瞳

なんだかおもしろそうな子だと思いちょっかいをかけてみれば
怯えていたことが嘘のように自分を怖がるでもなくぽんぽん言葉を投げてくる

忘れた訳ではないだろうに彼には自分に対する怖れや諂いは微塵もない

真っ直ぐに自分を見、語りかける
あれだけの殺意を見せられてさえ、まだ笑いかけられる強さと純粋さ

欲しい──と思った

単なる興味本位では済まされなくなる

何処にも、誰にも染まっていない彼を
自分の色に染めてみたい

あの、自分を真っ直ぐに見つめる瞳が欲しい

何も知らない純粋な心のまま
自分の棲む地獄に引き摺り降ろしたい

その綺麗な瞳を持ったまま
自分の元まで堕ちて欲しい


手に入れる

何としても



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