「黒崎くんって字、綺麗だよね」
さらさらと筆を走らせていた俺の横からその書類を覗き込みながら、イヅルさんが言った。
「現世ってあんまり筆って使わないんだろう?」
不思議そうにそう尋ねるイヅルさんに「うん」と軽く頷くと、俺が答えるより早く、自慢気な声が飛んできた。
「せやろ〜。一護ちゃんの書く字ィて綺麗なんよ〜。なんかこう、ピシッとしてて性格そのまんま言うか…」
「ウルサイ、黙れ」
放っておいたらそのままベラベラ喋り倒しそうなギンを一言で黙らせて、俺はいくつか疑問だった書類の箇所をイヅルさんに質問する。
斜向かいにある庶務机から「ヒドッ!」とか「ホンマ冷たい…」とか、ギンのブツブツ言う声が聞こえるけど、無視、無視。
ここで優しい言葉なんて掛けたら、せっかく苦労して机に縛り付けた意味がない。
イヅルさんと一通り質問箇所の遣り取りをして、疑問が解消された時点で、そういえば…と俺は自分から話を戻した。
「昔習ってたんだ、習字」
なんとなく宙ぶらりんになっていたイヅルさんの疑問に、そう笑って答えると「そうなんだ」と些か意外そうに頷かれた。
あ、やっぱりその反応。
どうも俺と習字というのがイメージに合わないらしく、それを言うと大抵皆同じ反応になる。
習っていた…といっても、俺が教室に通っていたのはお袋が死ぬまでの話だ。
その頃の俺は、本当にお袋べったりで、正直外で友達と遊ぶよりもお袋といる方が好きだった。
きっかけは些細なもので、お袋自身、字が凄く綺麗な人だったのだ。
それを俺が褒めると、『字は心を表すんだよ』と言って書き取りの宿題をやっている俺の横で、一緒に書いてくれてたりしていた。
お袋の性格そのままに明るく伸びやかなその字を見る度に、おれはなんだか温かで嬉しい気持ちになって、子供心に負けじと綺麗に書こうと一生懸命になっていたのを思い出す。
生まれて間もない遊子と夏梨を可愛い、護らなきゃと思う反面、半分お袋を取られたような気になっていた俺に、『じゃあお母さんと一緒にお習字習おうか』と言って、一、二もなく頷いた俺と一緒に週二回ほど個人でやっている教室に通っていたのだ。もちろんその間、妹達は親父に預けて。
お袋が死んで、結局その教室には通わなくなったけれど、何となく俺の中でお袋の『字は心の表れ』という言葉が焼き付いていて、実は今でも筆字は結構好きだったりする。
尤も、キャラに似合わないのはわかっているから、こんな事誰にも言ってないけど。
と…そういえば、居た。一人だけ。その本人は今、柳眉を顰めて大量の書類とにらめっこしている。
が…。「手が全然動いてねぇじゃねぇか!」
横目で盗み見たギンの手が完全に止まっているのに思わず声を上げると、ギンが面白く無さそうに口を尖らせた。
「もう…、そないにボクの事気にしてくれるんは嬉しいけど、なんかボク監視されとるみたいや…。
ボク囚人ちゃうし」
「監視みたいじゃなくて、監視してんの。見てねぇとすぐサボるくせしてゴチャゴチャ言うな」
「冷たい…一護ちゃん…」
「誰のせいでこんな状況になってんだ、ええ?」
「ボクだけのせいやないし。一護ちゃんが手伝うとるのは総隊長さんからの言いつけやん」
「元はと言えばお前のせいだっつーの!」
そう、現世の死神代行の俺は、今現在三番隊の書類仕事を手伝いに来ているのだ。
そもそもなんでこんな事になったのかと言うと、はっきりきっぱりギンのせいだ。
三番隊の書類の提出が遅いというのは俺がこの護廷に関わりだした頃から、恋次たちから聞いてはいた。
実際青い顔をして胃薬常備のイヅルさんを見て、気の毒に…とは思っていたけれど、まさか俺が近い未来にそれに関わる事になるだなんて、あの時どうして思えようか。
だけど、運命が残酷だったのか、俺がそれに引き摺られたのか…自ら飛び込んだのか…はあんまり思いたくはないけど、その元凶のギンと付き合う事になって、それまでどこか間接的だった尸魂界との距離が一気に俺の日常に入り込んできてしまった。
初めの頃はそれでも俺とギンが付き合ってるのを知っているのは一部だけだったから、まだよかったけれど、気がつくとそれは護廷中に知れ渡っていた。
もちろん、喋ったのはギンだ。
あれ程言うなと口を酸っぱくして言ったのに、「放っておいたら虫がつく」だの「牽制の為だ」とか訳のわからない理由を付けて、こいつは自分から言いまくっていた訳だ。
当然、シメた。が、時すでに遅し。
噂は噂を呼び…まあ事実だけど…とうとう爺さんの耳にまで入ってしまった。
そしてある日、いきなり『お達し』が来たんだ。曰く、『死神の修行の一環として、書類仕事を三番隊で覚えろ』と。
なんで現世の人間の俺が、と当然直談判したがそこはさすがにこの護廷を取り仕切るだけあって、口で爺さんに適うはずもなく…。
あげくの果てにはギンまでしゃしゃり出てきて爺さんの援護をする始末。
しかも「どうせ現世の生を終えたら死神になるんだから」という屁理屈まで捏ねられて、結局有無を言わさず三番隊に放り込まれた。
そして、今に至る訳だ。
なんで俺が学校が休みの貴重な休日を棒に振ってまで、自分の死後の為に今からせっせと邁進しなきゃならないのか。そりゃ現世に居たって、虚は俺が休みだろうとお構いなしだけど、それとこれとは話が別だ。
そう言うとギンは、「ボクと一緒に居るのが嫌なん?」と拗ねる。
いや、大の男に拗ねられても可愛くねぇし。大体、仕事を覚えるなら三番隊じゃなくてもいいだろうがと言えば、「一護ちゃんが他の隊に行くなんてありえへん!絶対アカン!」と怒る。
まあ、元はといえばこいつがサボりまくって書類が溜まっているのが原因だから、俺がどんなに言ったところでどうせ三番隊以外には爺さんも行かせる気はないんだろうけど、文句の一つも言いたくなる俺の気持ちも分かって欲しい。
大体『見習い』という名を借りた監視役に充てられてるのは分かってるんだ。
俺が行く所全てにへばり付いてくるギンを、隊舎に大人しく閉じこめて置くための態のいい人質なんだ俺は。
はあ…、と自分の状況を振り返ってため息を吐いた俺に、イヅルさんが気遣わしげに神経質そうな眉を顰めた。
「疲れたかい?一休みしようか」
「え?ああ…大丈夫」
そう言って笑ったけど、取り合って貰えずに「お茶にしようね」とイヅルさんはさっさと机の上を片付けはじめた。
俺が見習いとして出入りするようになってから、三番隊の隊首室には俺専用の机が置かれていた。
入口の扉の正面に、窓を背にして置かれているギンの庶務机。
大量の書類を積み上げる為にあるのかと思うくらい無駄に大きい机は、正直二人が並んで座っても楽に仕事ができるくらいの幅がある。
だから最初椅子だけ持ち込んでギンの隣で仕事をしていたのだが…はっきりいってこれは大間違いだった。
正直仕事になんかなりゃしない。
無駄口を叩くくらいならまだいい。だけど自分の仕事はそっちのけで人の書類を覗き込みあーでもない、こーでもないと言いまくり、(確かに言ってる事は的確なんだけど…)あげくの果てには触るわ抱きつくは…、とてもじゃないけど口には出せないような事までやらかしそうになって、さすがの俺もブチ切れた。
二人きりならともかく、ここは仕事場だし、しかもイヅルさんだって居る。
そりゃ、付き合ってるからまあ…その、一通りの事はしてるけど、はっきり言って俺は人前でベタベタされるのはあんまり好きじゃない。──好きじゃないというか、苦手なんだ。
そんな俺に同情したイヅルさんと俺はしっかりタッグを組んで、強固に反対するギンを無視してさっさと机を運び入れた。──イヅルさんの隣に。
当然ブツブツ文句を言われたけど、元々仕事はイヅルさんから教えて貰っているから俺にはこっちの方が都合がいいし、大体俺が居る事でギンが遊んじまうんならそれこそ本末転倒だ。
正直乗り気じゃないけど、不本意とはいえ一度引き受けた以上責任があるし、それに…俺だってあちこちからギンの事を悪く言われるのはやっぱり嫌だ。
やれば出来るのにやらないアイツが一番悪いのは分かってるけど、そして、それを全部承知でやってるのも知ってるけど、でも誰だって自分の恋人を悪く言われるのはあまりいい気はしないと思う。
そういう俺の気持ちを知ってか知らずか、ギンは相変わらず飄々とした態度で呑気に構えているから尚更腹が立つんだ。まあ、俺が来ている時はそれでも大人しく机に座ってくれてるからそれでも大した進歩だと、イヅルさんに感涙モノの感謝をされたけど…。
でも、一休みと称した午後のお茶のあたりから──何だかギンの様子が変な事に気がついた。
普段なら休憩と言えば子供みたいに喜んで、お茶は玉露がいいだの抹茶がいいだの、茶菓子は何処のだと煩いくらいなのに、今日に限ってイヅルさんがお茶の用意をして戻ってくるまで、ギンは大人しく目の前の書類を睨んでいた。
元々開いているのかどうか分からないような目だから、処理するフリして寝てるんじゃないのかと一瞬訝しんだけれど実際はそんな事はなくて。
どんなに急ぎの案件でも、例え書類の束が崩れそうに山積みになっていても、慌てたそぶりさえ見せずに淡々と飄々とこなしていく奴だから、その時はやっとやる気になったかとあんまり気にしてはいなかったんだけど。
イヅルさんが戻ってきていつものソファに落ち着いた時になって、漸くいつもはいの一番に定位置に陣取るギンが中々席を立たない事に、『あれ?』と俺は内心首を傾げた。
「おい、ギン。お茶冷めるぜ?」
「…あー…。ん…せやな」
全然気のない受け答え。
そんなに重要書類が紛れていたのか?とイヅルさんに目で問いかけたけど、イヅルさんも首を傾げている。
大体そこまでギンが気を取られるような案件なら、こんな風にいつ処理されるか分からないような書類のなかに紛れている事なんてあり得ない。
放っておけば勝手に来るだろうとしばらく様子を見ていたけど、一向に動く気配のないギンに何度か呼びかけて漸く俺の隣に腰を下ろしたギンに、「なんだ?」と聞けばギン独特のイントネーションといつもの笑顔で「ん?なに?」と同じように返された。
「いや…別に…」
思わず口ごもる俺に、ギンの顔が悪戯っぽく笑みを作る。
「なんや、そんな風に飴玉みたいな目ぇで見つめられたら照れるわぁ。そんな見惚れるほどいい男?ボク」
「バ…、バカかお前!」
「え〜。ええやん、照れんでも。可愛ぇなぁ一護ちゃんは」
そう言っていつもの様に揶揄うから。
俺はついついそれに乗せられてしまって、今し方湧いた疑問なんてどこかに吹き飛んでしまった。
その後はもう、いつものような軽口の応酬で。そこにイヅルさんも加わって、結局普段となんら変わることのない会話と態度に、俺はすっかり安心しきっていたのだ。
そして──、俺はこの時気が付くべきだったのだ。
ギンがこうやって人を揶揄うような言い方をする時には、さりげなく話題を逸らしたいという意志の表れだという事に。
和やかな…というか普段通りの賑やかしい休憩の後、恋次がイヅルさんを呼びにきて、何やら行事の打ち合わせだとかで離席する事になった時も、やっぱりギンの様子はどこか変だった。
「ごめんね、黒崎くん。今あるのは特に急ぎじゃないから大丈夫だと思うんだけど…」
そう心配そうに言うイヅルさんに、休憩の後やはりそそくさと自分の席に収まって黙り込んで仕事をしていたギンからいつもよりピリっとした声が発せられる。
「イヅル、心配せんでええ。ボクもおるし、お前は早よ行き。遅れるで。後、どうせ遅なるやろうから今日はそんまま直帰してええで」
それは珍しく隊長然としたギンの声色で。
あんまりそんな声を聞く機会がなかった俺は、思わずギンを凝視してしまった。
だが、当然ギンのそんな姿も知っているイヅルさんは、副官らしく「はい」と素直に頷いて、俺に一言声を掛けてそのまま隊首室を出て行った。
珍しいものを見た…と、その時は思った。
ギンが隊長なのはもちろん知っているし、イヅルさんが副隊長なのも、もちろん分かっている。
でもいつもはダラダラしているギンに口煩く言うイヅルさんという図式が俺の中に出来上がっていたから、こんな風に隊長・副隊長という立場でものを言っている姿なんて想像できなかったのだ。
イヅルさんが出て行った後も、相変わらず黙り込んだまま黙々と仕事をしているギンに、いつもの習い性なのか一瞬俺の身体に緊張が走る。
さんざん口煩く俺とイヅルさんで言ったから、今は大人しくしてるけど、さすがに二人きりになると今までのギンの所業の数々がやっぱり頭を過ぎってしまう。
本当に見境がないというか…。
まあ、どんなに俺が暴れてもガツンと言っても全然聞く耳なんて持たないギンに、最終的には乗せられてる俺だって悪いんだろうけど。
この部屋で人には言えない事を散々されてきた俺にしてみれば、警戒するのは当たり前で。
だからこの時も俺は、当然二人っきりになったらいつものようにギンがちょっかいをかけてくるものだと思っていたのだ。
だけど──。今日は違った。
二人っきりになったにも関わらず、ギンは相変わらず無口で、淡々と仕事をこなしている。
しんっと静まりかえった隊首室。
紙を捲る音と、筆を置くときに僅かに立つコトリとした音。
そして、墨を刷るときのシュッシュッとした音。
それだけが俺の耳に響いてくる。
あいつ一体どんなスピードで仕事してんだ?と思うくらい、ギンの机から立つ音は早い。
『やる気になったら隊長は早いから』と常日頃イヅルさんが言っている言葉は嘘じゃないんだとその音で分かる。
本当にどうかしたのか?と一瞬疑問が沸いたものの、『いやいやこれは本来あるべき姿だから』と思い返す。
ただ──。俺がこいつと付き合い初めてから、二人っきりで居てまったく会話もない状況なんて今までなかったから、なんだか居心地が悪く感じてしまう。
その居心地の悪さに何か話しかけようとしたけど、せっかくやる気になったギンの仕事の邪魔はしたくなかったし、こいつの集中力が途切れたらまたいつもの状況に戻るんじゃないかと思って、仕方なく俺も特に話しかける事はせずに目の前の書類にだけ集中していた。
「──あ…っと……」
思わず声が出たのは、この状態になってどのくらいたった時だっただろうか。
常日頃、イヅルさんから鍛えられたお陰で(結構スパルタなんだよな…)割とそつなく書類仕事もこなせるようになってはいたけれど、当然知らない事は数限りなくある訳で。
これってどうするんだっけ…と一瞬止まった俺の手と声に、ギンが目聡く声を掛けてきた。
「なんや、どないしたん?」
手を止めてちょいちょいと手招きする。
この状態のギンをあんまり煩わせたくはなかったけれど、分からないものは分からないので、仕方なく俺はその書類を持ってギンの元へと足を運んだ。
「ごめん、これどうするんだっけ…」
「んー、ちょぉ見せて」
俺が渡した書類を見ているギンの側に散乱した紙の束。
そこにはギンの字で署名やら指示やら、俺には分からない事柄が書かれたものが散らばっている。
それを見ながら、ああ…やっぱり俺こいつの字って好きだなぁと思った。
俺が習っていたのは子供が通う所謂『習字教室』で。つまり、そこでは書道と銘打った『お習字』の教室だった。
もっと上の学年になれば、手本を見ながら綺麗な字を習う『習字』から、芸術の域にと達する『書道』へと移っていったのだろうけど、結局俺の毛筆は単に綺麗な字を書く『習字』の時点で止まってしまっていた。
ギンの字は草書とも楷書とも付かない独特のもので、なんとなくその字は柳を想像してしまう。
しなやかだけど決して折れる事のない力強さ。一見悪筆に見えるけれど決してそうじゃない。
いい意味でいえば『味がある』とでも言うのだろうか。
確かに手本の様に上手いとはいえないけれど、ギンにしか出せない持ち味のようなものがあって、俺はギンの書くこの文字が好きだった。
なんというか、ギンらしい。
別に文字フェチじゃないしこだわりがある訳でもないんだけど、俺がギンを受け入れたのはこの字を見たせいもあるのかなと少しは思う。
そう思いながらボンヤリしていた俺に、「ああ…」というギンの声が聞こえてきた。
「え、なに?」
ヤバイ、今は仕事中だったと俺は急いで意識を引き戻す。
その俺を見ながらギンが書類を俺に返して言った。
「それな、『戻り』やから去年の今頃と内容は同じなんよ。隣の部屋にイヅルが整理しとるはずやから去年の今の月のとこ探してみ?」
「なに、『戻り』って」
「ああ…。一旦一番隊に上げて総隊長印もろうて隊毎に保管する書類の事を『戻り』言うんよ。ま、要は定例の書類やな。今一護ちゃんに渡しとる奴は全部戻りのはずやから、同じもんが保管されとるっちゅー事や。どうせそれ数字だけしか見ぃひんから、計算だけして後は写したらええよ」
「そんなんでいいのか?」
何ともいい加減に聞こえるギンの指示に、怪しむ訳じゃないけど思わず問い返す。
それにギンは、軽く頷いて暗算できる?と聞いてきた。
「…う…」
そりゃ、簡単な奴なら暗算でも何とかなるけれど、正直結構な数字が並んでいるこれを暗算でできますなどとはとても言えない。現世なら電卓があるけれど、此処にはそんな便利なものはない。
進んでるんだか遅れてるんだか本当によく分からない世界だと改めて思う。
「んじゃあ、算盤は?」と聞くギンに、すかさず「無理」と答える。
商業高校ならいざしらず、普通科の学生は珠算塾でも行かない限り算盤になんて触れた事もない。
「…筆算なら…まあ…」
不安気にそう言う俺に、ギンが頬杖を付いたままするりと数字を吐く。
「え…?」
七桁の数字を吐いたギンに問い返すと、もう一度同じ数字を繰り返されて俺は目を瞬かせた。
「答え」
そっけなくそう言われて一瞬意味がわからず「はい?」と間抜けな声を出す。
「何回か検算して確かめてみ?まあ面倒ならそんまま書き写してもええけど」
そう言ってギンは再び自分の仕事に戻っていった。
手渡された書類を見ながら思わず眉を顰める。
あいつ確かざっと見ただけだよな…と思い返す。文章に紛れた数々の数字。ほとんど一瞥しただけなのに見落とす事無く本当に計算なんてできるのか?と若干訝しみながら、取り敢えず言われた通りに隣の部屋の書類棚から去年の同じやつを探し出して、それを参考にしながら処理を進めて計算する。
何度か繰り返して間違いがない事を確認すると、やっぱりギンの言った通りの数字が並んでいた。
あいつ一体どんな頭をしてんだと改めて思う。
冗談の一言も言わず、そして二人っきりなのに俺に構う事もせず、黙ったままただ黙々と仕事を続けるギン。
隊長の顔をしてイヅルさんに指示を出すギン。
そして、『やれば有能』という誰かの言葉通りに、やっぱり本当に出来るギン。
どれもこれも──なんだか俺の知らないギンばかりで……。
それが隊長として当たり前の姿なんだと思ってはみても…。
なんだか俺は、そんなギンをこの時少し遠く感じていた。
そして。
ギンの変貌は隊舎時間に決定的なものとなった。
漸く一区切り終えて後は明日に回そうと散らかった書類の束をトントンと纏めて、ふとギンを見ると、ギンは相変わらず積み上げられた束を黙々と処理していた。
「ギン、もう隊舎時間だって」
そう言って珍しく俺から帰ろうと促す。
付き合っているから当然と言えば当然だけど、尸魂界にいる間、俺はギンの所に寝泊まりしている。まあ、言ってみれば第二の家というようなものだろうか。
ギンに言わせれば、そこは『新居』で『愛の巣』だと相変わらず惚けた事を言う。
今日は珍しく頑張ったから、夕飯はギンの好きなものばかり作ってやろうかと俺は正直少し浮かれていた。
もちろんそんな事は態度には出さなかったけれど。
──が。ギンの思いも掛けない言葉に、俺は一瞬固まってしまった。
「ああ…先帰っといて」
いつもは隊舎前には俺の横に来て早く帰ろうとせかすくせに、今日は逆だなとちょっと微笑ましく感じていたのに。
「…え…。でも…もう隊舎時間…過ぎてるぜ…?」
「うん。せやけどまだ色々片付かんから、ええよ、一護ちゃん先帰り」
「先に…って…」
確かにまだギンの机には山ほど仕事が残っているけれど。
でも何をおいても俺優先できていたギンから、初めてそう言われて俺はバカみたいにその場に立ちつくしてしまった。
別に、何が何でも俺が先だなんて思ってない。
隊長なんだから仕事が優先なのは当たり前だし、実際そう思っている。
でも、こいつの口からそんな言葉が出るのは初めての事で。
──だから、ちょっと吃驚したんだ。
…そう、それだけだ、───きっと。
「…じゃあ…、俺先帰るな。あんまり無理せずにほどほどにして帰ってこいよ?」
いつもは何が何でも仕事しろという全く逆の事を言って、俺は部屋を後にする。
出る時にほんの少しでも視線を上げてくれてもよかったのに…。
ギンは書類に目を落としたまま、ヒラヒラと手だけを振って帰る俺を送り出した。
カチリと針が日付の変化を知らせる。
尸魂界の時刻は和時計が基準になっているらしく、現世と時の刻み方が若干違う。
それでも当然時間は過ぎるし、日付も変わる訳で。
ギンがいつ帰ってきてもいいように湧かした風呂もとっくに冷めて、ギンの好物ばかりが並んだ食卓も手つかずのまま。結局俺は食う事も眠る事もできずに、ただボンヤリとギンの帰りを待っていた。
どんなに遅くてもあいつの忍耐がそんなに持つ訳はないと正直思っていた。
これが緊急を要する事ならまだ分かるし、そうなったら俺だって何か手伝う事だって出来たと思う。
でも。
ギンに回された仕事は結局ギンにしか──隊長格にしかできないもので。
そして、せっかくの休みを棒に振ったと言いながら、それでもギンと一緒に居られる時間をやっぱり心待ちにしていた俺は、あのギンの帰り際に見せたそっけない態度にかなり動揺していた。
元々ギンは思っている事をあんまり表には出さないし、笑ったり怒ったり拗ねたりと、感情表現が凄く豊かなようでいて、実はそうしている時は単純に表面で思っている事だけに過ぎない。
要は、表に出しても本質的に支障がないと思っている部分でしかない。
ギンの本当の感情はもっと深い所にあって、正直、付き合ってる俺にも分かりかねるくらい複雑怪奇だ。
だから何を考えているか分からないと言って、ギンを怖がる奴が多いのだと思う。
ギンとつきあい始めた頃、そんな話を乱菊さんとしていたら、『直感でそこまであいつの事見抜ければ大丈夫よ』と些か不安だった俺の背中をドンと叩いてくれた。
正直、その『何を考えてるかわからない』と言った部分が知り合った当初は苦手だと思ったし、こいつには絶対深入りはしたくないと思っていた。
俺が仲間だと思えるのはいつも一本筋が通っていて、どっちかというと白黒はっきりした性格の奴が多かったから、正直言葉の裏に含みがあるようなギンみたいな性格は避けて通っていた筈だった。
今現在仲間だと思っている奴らでグレーの部分が多いのは石田くらいのものだが、(水色は…『いい奴』という意外よく分からないから取り敢えず置いといて…)あいつだって好き嫌いははっきりしているし、その性格を知るにつけ、結構分かりやすくて単純な部分がある事も分かってきた。
あの白哉でさえ、表面は鉄面皮だけど中身は結構熱いし、あいつの価値観が共感できるかは兎も角、良い悪いの線引きはパッキリしている。
本当に苦手なタイプの筈だった。ギンは。
一方的に俺の事を『ちゃん』付けで呼んできて、所構わず貼り付いてきて。
好きだの愛しているだの人前だろうがなんだろうがお構いなしで言い募り、その度に、振り払って怒鳴り散らして。
でも、気がついたらいつの間にか俺はあいつの事を目で追うようになっていた。
こっちに来る度に、あの独特の甘ったるい声で俺の事を『一護ちゃ〜ん』と呼ぶあの声が聞こえないと、なんだか落ち着かないような気分になって。
いつしか…『好きだ』と言うあいつの言葉に、素直に頷いていた。
正直、頷いてから自分でビックリしたんだけど。
え?俺今なんて言った?と思う間もなく抱きしめられていて。
その腕の強さに、初めて俺はあいつの本気を肌で感じていた。
何を考えているのか分からない奴だけれど。
でも、それでもギンの事は分かっているつもりだった。これでも。
正直、──言い過ぎたのだろうか。
そんなにも俺の態度は冷たかったのだろうか。
でも、俺がギンに向かって仕事しろだの、もう少し真面目にやれだの言う事はいつもの事だ。
それがギンにとって、煩わしく感じて、それが積もり積もった結果がこれなのだろうか。
俺が此処にいるのに、ギンが帰ってこない。
ここは…この家は、ギンの家なのに。
ギンが帰るべき場所な筈なのに。
人前でベタベタされる事が俺が苦手だって事、誰よりもギンが一番よくわかっているはずなのに。
今日ギンがやっていた仕事は、本来今日中に終わらせるようなものじゃない事は俺だって知っている。もちろん急ぎのやつだってあったし、でもそれはブツブツ言いながらも午前中に終わった事だって知っている。
こんな時間になっても…帰ってこない程、そんなに躍起になるような案件なんてなかった筈だ。
ギンは今日…、あの休憩の後二人っきりになってから、一度も俺をまともに見なかった。
言葉を交わしたのはあの書類の件の時だけで。
それ以外はずっと黙ったまま、一度も俺に目もくれなかった。
こんな事は初めてだ。
そして──初めてだから、どうしていいのか分からない。
いつもギンの方から貰っていたから。視線も、言葉も──そして抱擁も。
ギンから突き放されたようで。拒絶されたようで。
たかが仕事で帰りが遅いという、それだけの事が、俺を酷く不安にさせていた。
「──なにしてるの?一護ちゃん!?」
「…ギン…」
玄関の引き戸が開いて、ギンが中に入ってくるのと同時に玄関へと走り寄った俺は、その勢いのまま危うくギンにぶつかりそうになって、寸での所で抱き留められた。
「どないしたん。先寝てへんかったん?…って、死覇装も脱いでへんやん」
「ギン…」
ギンの問いかけに俺はただ言葉を失ったみたいにギンの名前だけ繰り返す。
本当にそれしか今、出てこない。
そんな俺の様子にギンの目が一瞬見開き、直ぐさま訝しむように眇められた。
「…もしかして飯も食うてへんのと違う?」
「え…いや…」
実際その通りなのだが、なんだかそれも煩わしいと思われたら嫌だとかどんどん思考がマイナスになっていた俺は、上手く誤魔化そうとして言葉が出ずにモゴモゴと口ごもる。
ああ、もう。どうしちまった俺の頭!
早く帰ってこいってそればっかり考えていて、実際にギンが帰って来たらどうしていいか分からない。
自分でも訳分んない思考で言葉も動きも固まったままの俺は、気がつくとギンの袖口を掴んでじっとギンを見上げていた。
「あ…」
それこそ子供みたいじゃねえか。
そう思ってパッと手を離す。
すると、眇めた目でじっと俺を見下ろしていたギンが、ふうっと深くため息を吐いていきなり俺を抱え上げた。
「え、ちょ…!ギンッ!」
そのままギンは俺達が寝室に使っている部屋へと入り、並べて敷いてあった布団の上にドサリと俺を下ろした。
「ああ…もう…」
ぼそっと呟いたギンの言葉が、なんだか酷く胸にグッサリと刺さって。
次の瞬間、俺は叫んでいた。
「──帰る!」
起き上がってそのまま瞬歩使って、とにかくこいつの居ない所まで行ったらソッコー現世に帰る。
そう思って起き上がろうとした俺を、ギンの腕が押さえつけた。
「ちょお待ち。落ち着き、一護」
「うるせえ!この手離せっ、ギン!」
「やから、落ち着きぃて。ちゃうんよ、今言うたんは一護にやない、ボクにや」
「え……」
その言葉に、ふっと全身の力が抜けた。
一体何が違うって?何の話してるんだ、こいつは。
「あんな…。いや、まず…ごめんな、一護。ボク別に一護んこと無視もしてへんし、不安にさせるつもりも全然なかってん。ホンマごめん。ボクの態度が悪かってんな?それに気づかんかったボクに呆れただけや」
「ギン…?」
「ちゃんと変わらず一護ん事好きやし、愛しとるから」
「じゃあ…なんで…」
絶対に言わない、言いたくないと思っていた言葉がするりと口をつく。
だったら、今日一日のあの態度は一体なんだったんだ。
そう思って見上げたギンの顔は、苦笑に歪んでいた。
それも俺に対してじゃなく、まるで自嘲するように。
そしてそのまま俺はギンから口付けられた。
「な…、離せっ!」
何の説明もないままコトに傾れ込もうとするギンに精一杯抵抗する。
こんな状態で、こんな気持ちで今コイツに抱かれるのなんて、絶対嫌だと思うのに。
でも、抱きしめてくるギンの腕の強さと温もりに根性のない俺の身体は序々に抵抗が弱まっていく。
「ごめんな一護。先、抱かして」
「なに言ってんだよ…っ!」
本気で抵抗してるつもりだったのに、力の抜けていく身体に喝を入れるように俺は声を張り上げる。
早急に俺の死覇装を剥ぎ取りながら、コトを急ぐギンがどこか愛しく思えて仕方ない。
本当に…なんでこんな根性無しになっちまったんだ、俺は。
帰った早々録に話もせずに俺を求めてくるギンが嬉しいと思うなんて。
「後でちゃんと話たるから…。もうボクも限界や。早よ一護に触れとうて…挿れとうて溜まらんねや」
そう言ってギンが俺の袴を剥ぎ取って、両足を抱え上げる。
「ちょ…、あ…っ」
すかさず俺のモノがギンに咥えられて嬲られる。そのまま這わせられた舌は、俺の窄まりに届き舐め回され、息づき始めたその場所に差し入れられた。
「や…ああっ!」
ギンの長い舌が俺の中で蠢く。ギンの熱い舌と注がれる唾液で俺の中が濡れていく感触。
溜まらずに腰を揺らすと、ギンがズルりと舌を引き抜いた。
「アカン…。もう挿れるで…」
ギンの愛撫に上手く回らなくなった思考の端で、ギンが呟くのが聞こえる。
そして、熱い塊が確認するように何度かそこに押し当てられて…、グッと弾みを付けて俺の中に潜り込んできた。
「く、あっ!」
思わず仰け反る。
何度行為を繰り返しても、今だこの瞬間だけは慣れない。
前ほど痛みは感じなくなったけれど、それに変わるように今度はその熱さと中が拓かれる感触に身体が思わず逃げを打ってしまう。ゾクゾクと背筋を駆け上る快感とも悪寒ともいえない何か。
嬉しいのか怖いのか、色んな感覚が一緒くたになって俺を襲う。
「あ…ギン…っ」
溜まらずに伸ばした俺の手を取り、自分の肩に掛けさせてギンが言う。
「ええよ…。しがみ付いとき…一護」
「ん…」
こんな時のギンは、酷く男らしくて。いつものような掴み所の無さなんて微塵もなくて、縋る俺をちゃんと抱き留めてくれるという安心感だけを俺に与えてくれる。
その言葉に、ギュウっとギンの背にしがみついた俺の腰をしっかりと支えて、ギンのものがまた俺の中に差し込まれていく。
熱い…。熱くって堪らないギンの、塊。
「一護…」
全て収めきったギンの俺を呼ぶ声が、いつもより低くて甘ったるくて…そして熱っぽい。
ああ…この声が、好きだ。
俺しか知らない、ギンの情欲に塗れた、声。
過去にはきっと、この声を知っている人だっていたのだろう。
でも今は、この声は俺の…俺だけのもの。
「ギ…ン」
下肢に穿たれた熱と共に、俺の思考もどんどん溶かされていく。
キスを強請るようにギンの名前を紡ぐと、すかさず熱い舌が潜り込んできた。
もう、どこもかしこも熱い。
ギンの熱と俺の熱が溶け合って、まるで一つの塊になったみたいだ。
「ん…ふ、ぅ…。ん…」
自分から舌を絡めると、鼻に抜ける甘ったるい声が漏れる。
下肢から聞こえるグチュグチュとした音と、舌をからめるピチャピチャとした水音。
唇を離される合間に呟かれる「一護…」というギンの甘い声。
それが相まって聴覚までもが俺を翻弄する。
もう、この声だけで俺は達きそうになる。
緩く抜き差しされながら何度も長いキスをされて、トロトロになった俺が目を開けると、途端にギンの青い瞳の色が飛び込んでくる。
「あ…」
目が、焼き付く。
ギンの青い炎。
普段は温度をまったく感じない、絶対零度のその瞳。
こうして繋がり合っている時だけ、どんなものよりも熱くて、俺を焦がすその瞳。
「ふふ…」
くすりとした声と共にギンの口角が上がる。
「なんや、ボクの目ぇ見て感じたん?今、一護キュって締まったで?」
ギンの瞳が妖しく揺れる。それと同時に奥まで衝き入れられて、俺はあられもない声を上げる。
「あぁっ!んん…っ」
「ああ…。ホンマ可愛え。なあ、もっとボクん事見て?もっと…ボクを感じて…」
ギンの言葉が俺を煽っていく。身体が感じて止まらなくなる。
焦らされるようにゆっくりと動かされるギンにもっと激しく動いて欲しくて、俺は浅ましく腰を振り立てて強請る。
「あ…っ!…い…イイ…、ギン…もっとぉ…」
「ええ?ナカ…。一護んナカ…ええの?」
「ん…イイ…っ。ギン…」
もう、感じて堪らない。ギンの熱にも、言葉にも…ギンの全てに。
「なあ…一護…ぎょうさん掛けたるよ…。なぁ、ドコに掛けて欲しいん?」
「ん…、アアッ!」
「ドコや…。言うて、強請って、一護。ボクの精液欲しい言うて、お強請りしてみぃ?」
そう言ってギンが俺の奥を深く穿つ。
「あ、あああっ」
「好きなトコに掛けたるよ。顔がええ?この可愛えお口ん中?それとも真っ赤になっとる乳首がええの?それとも…この前みたいに一護のおちんちんの中に射精したろか?」
今までギンにされてきた事をそのまま口に出される。
この身体で、ギンの精を浴びていない場所なんてない。
そして、それを何処に浴びても、俺は感じまくって達してしまう。
でも…。一番俺が感じる場所がある事もギンはよく知っている。
「な…。出してええ…?こんまま一護の奥に掛けてもええ…?」
俺が一番欲しい場所を知り尽くしたギンが俺の欲しかった問いかけを返す。
それに俺はコクコクと頷く事しかできなくて。
もっともっとギンの熱が欲しくて。ギンに求めて欲しくて。
俺はギンを抱きしめて、自分から腰を揺らしてギンの放出を誘う。
「ホンマ可愛ぇなぁ…。一護は…」
可愛いなんて。ギン以外から言われたら、絶対に殴ってる。
一応俺だって男だし。いくらギンを受け入れているとはいえ、別に男だったら誰でもOKな訳じゃないし。たぶん…ギン以外なら普通にノーマルだと思うし。
素直じゃないし、文句だって言うし、人前ではそっけないけど。
でも、こんな事許してるのはギン以外にいない。
ギンの精を孕むほど受けながら、達する事ができるほど俺の心も身体もギンに溺れている。
それだけ、好きなんだから。
ギンみたいに、まだ『愛してる』 なんて言う程色々知っちゃあいないけど。
「…も…欲しい…ギン…」
ギンの熱が。ギンの熱い迸りが。ギンの…全てが。
精一杯の思いでそう言うと、ギンは分かってるというように大人の顔で頷く。
「全部あげるよ。ボクの全部や、一護…。愛しとる…」
「ん…。俺、も…」
一段と激しくなるギンの抽挿に揺さぶられながら。
このまま一つに溶け合いたいと、俺はギンに全てを預けてそのまま快楽の波に飲み込まれた。
結局。俺がギンとまともに話したのは、翌朝目を覚ましてからだった。
いつものようにギンの腕枕で目を覚ました俺は、出舎時間がとっくに過ぎている事に気がついてギンを叩き起こした。
それにギンは、眠そうに目を擦りながら、本当に寝ぼけているのか!?というような力で、起きようとする俺を抱き込んでまだ若干眠そうな声で言った。
「ああ…。今日はええねや。今日はボクも一護ちゃんも、お休みや」
「はぁ!?休み…って、何寝ぼけた事言ってんだ!」
そう言って、再び起き上がろうとした俺に、ギンが薄目を開けて俺の頭をぽんぽんと叩いた。
「やから、ええねや。今日の分は昨日の内に済ましてもうたから」
「え…?」
「この為に昨日頑張ったんやから、褒めたって」
そして俺は抱き込まれるようにギンの胸の中に収まって、昨日のギンの行動の一部始終を聞いていた。
「昨日の昼間言うてたやろ?一護が見習いいうて三番隊に来たんはボクのせいやって」
「え…、でもそれは…」
それこそ、今更だ。
そんな事は見習いの話が出た時点からずっと言っていたし、何も昨日今日の話じゃない。
あれは…その…、今では俺の口癖みたいなもので、確かに発端はギンだけど、本気で嫌だったら何としても断っている。実際俺は現世の人間だし、まだまだ現世でちゃんと生を全うするつもりだ。
いずれ此処に来るとしても死神修行だってそれからでも遅くない…というかそれが本来なんだから。
いくら何でもそれが分からない爺さんじゃないはずだ。
だから、俺の性格上憎まれ口を叩いちゃいるけど、本当に嫌がっているかどうかはギンは知っていると思っていたのに。それともやっぱり、それを気にするほど昨日の俺の態度が冷たかったのか。
「ああ、ちゃう。一護がボクに憎まれ口叩くんは、単なる照れ隠しやってちゃんと知っとるから」
再びマイナス思考に嵌りかけた俺を、ギンが引き戻す。
俺が人前でこいつに殊更冷たく当たるのは、何も本気で嫌だからじゃもちろんない。
ベタベタされるのが苦手なのは…、正直恥ずかしいからだ。
よく居るだろ街中とかで。イチャついてるカップル。あーゆーの見ると、よく人前で平気だなとか思っちまうんだ。
まあ人の事だからどうでもいいけど。
でもそれが自分達だと考えたら、どうにもこうにも恥ずかしくてやってられない。
だから人前ではヤメロっていつも言ってるのに。やっぱり分かっててやってんのか、コイツは!?
「ギン…お前……」
「あっと、怒るんはちょぉ、待って。その前にボクの話聞いて?」
「あ…」
そうだった。今はそっちじゃない。
ギンの態度にすっかり安心して満たされたせいか、いつもの調子で怒りだした俺をギンが押しとどめる。
「…でな、一護ちゃん昨日盛大にため息吐いたやろ」
「ため息…ついた…っけ…?」
そう言われれば何だかそんな気もする。でも、なに、それが原因?
「まあ…忘れてるんなら、ええわ。でな、そん時思うたんよ、ボク一護ちゃんに無理さしとるなぁって」
「え…?」
「一護ちゃん現世で毎日学校行って、その上死神代行で虚退治もしとるやろ?あそこ管轄のあのヘボ死神は全然役立たへんし、いっその事アイツがいてもうたらボクが代わりに行くのに…て何度も思うたんよ」
「いや…それは…っ!ほら、アイツはアイツで、ちゃんとやってるし!───たぶん…」
此処はちゃんとアフロを庇っておく。でないと本当に何かしでかしそうで…怖い。
たった今、こいつの瞳の奥がキランと光ったのは、…きっと錯覚じゃないはずだ。
「……。全然信用ならんけど、まあええわ。で、今その学校が休みの時はずっとこっち来てくれてるやろ」
「まあ、それは…」
「ボクはな、一護ちゃんとずーっと一緒に居りたいんよ。でもそれはボクの我が侭言うんも自分でわかっとる。やからな、一護ちゃんが見習いとして三番隊に来てくれるんはホンマに嬉しいけど、これ以上無理さしてもうたらアカンって思うたんよ」
「え…じゃあ…それで…?」
「うん。やから、せめて明日は楽さしたろ思うて、お仕事全部片付けてきたんよ」
「はぁ!?」
片付けてきたって…あの量を!?
「ボクかていつも一護ちゃんが来る度に仕事ばっかりしとるの嫌やねん。この所二人で居れるんは夜だけやし、隊首室ではイヅルが一護ちゃんに付きっきりやし、人前ではイチャイチャできひんし。そんなん思たら、ガーッてお仕事片付けて明日一日一護ちゃんとノンビリした方がええなぁ思て。ごめんな、ボク一旦集中するとあんまり周り目に入らへんようになんねん」
「えっと…それでずっと喋んなかったのか…?」
そう聞く俺にギンがこっくりと頷く。
「うん。別に一護ちゃんに素っ気ない態度とったつもりはなかってん。やけどあん時は同時に三つ四つ片付けとったから…、さすがのボクも余裕なかってんよ。それに…、そこまで一護ちゃんが気にしとるなんて思わへんかったから…。ホンマ、ごめんな?」
話を聞いてみれば、本当に何てことない理由。
たったそれだけの事で、激しく落ち込んでいた自分がバカみたいに思える。
「やから、今日はこのままお昼までゆーっくり眠ってそれから二人で過ごそうや。飯食いに行って、ぶらぶら瀞霊廷歩いて、甘味処に寄って…帰ってイチャイチャしよな?」
ふぁあ…と欠伸混じりに言うギンの目が、またとろんとしてくる。
そのギンの腕に抱き込まれたまま、俺も気持ちいいなぁと思いながらそっと目を閉じる。
トロトロと微睡みながら、閉じた視界にあのギンの字が映り込む。
白い紙に黒い墨。ギンの羽織る隊長羽織と同じ白と黒のコントラスト。
「俺さ…。やっぱりギンの字…好きだなぁ…」
字は心を…人柄を表すというお袋の言葉が甦る。
柳のようにしなやかで、強い個性を持ったギンの字。
仕事ばっかりしてるギンなんてギンらしくない。
適当にサボりながら、でもやれば優秀で。強くて。
掴み所が無くて飄々と渡っているように見えるけれど、その実結構しっかりしてて。
子供みたいに甘ったれで我が侭で、迷惑千万な奴だけれど。
でも、決して折れないしなやかな強さを秘めた大人の男──。それが、市丸ギン。
俺が、大好きなギン。
呟いた俺の声が聞こえているのかどうか。
ギンは目を瞑ったまま「…うん…」と生返事を返して、そのまま安らかな寝息を立て始めた。
目が覚めたら、二人で出かけよう。
きっとまたいつものように懐いてくるギンを振り払うんだろうけど。
でも、ギンは分かってくれてる。こんな俺を。
だから俺は安心して──。
きっと今日も、変わらずベタベタしてくるギンを容赦なく突き放しているんだろう。
end
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