ふと、近づいてくるよく見知った強い霊圧に気づく。
一護は目を通していた書類から一瞬だけ視線を外してその気配を探るとその霊圧の行き着く先を
予想してまた再び読み進めた。
と、次の瞬間予想した通り扉の外からのんびりとした声が掛かる。
「黒崎隊長ぉ〜。おられますぅ〜?」
「ああ、どうぞ」
完全なる関西のアクセントで殊更語尾を延ばすように喋る男は、入室を許された隊首室に一護しか
居ないのを一瞥すると途端に口も柄も悪くなった。
「なんや、オマエ一人かいな、一護」
「他は出払ってる。…それより仕事中は隊長と呼べ、平子隊長」
「相変わらずカタイなぁオマエは。真子でええ言うてるやろ、一護」
「…だから…仕事中くらいお互い隊長だろうが…」
はあ…とため息を吐きながら言ってはみるが、そんな事で改まるようなら長年こんな事は言い続けていない。もう気の遠くなるほどの長い付き合いの平子は周りに人が居なければ仕事中だろうが何だろうが平気で人を呼び捨てるし、おまけに一護にもそれを強要する。唯一の救いは一応人目が在る時にはちゃんと隊長の顔をしていることだ。それでも、付き合いの長い人間ばかりになると途端に崩れてくるのだが。
「あーもう、なんでオマエはそんなに良い子やねん。もーちっと肩の力抜かんと堅っ苦しぃて隊長なんかやってられんわ、ドボケが」
「堅苦しくって結構。…で?わざわざ隊長格が尋ねてくるなんてなんの用事だ?」
この間一護の目は一度も平子を見ることもなく、黙々と書類を読み進めている。
それでなくとも日々の仕事は多いし、特に一護のいるこの三番隊は一護自身総隊長からの信頼が
厚いせいなのか、次々と業務が舞い込んでくる。それを、断りもせずに引き受けてしまうあたり、お人好しだの、要領が悪いだのと色々と言われるが、それだけ隊の信頼が厚いのは良いことだと一護は涼しい顔で与えられた任務を黙々とこなしていた。
一護を筆頭とするこの隊の人間は、それはもうよく働く。だが、それに対して文句も言わずに職務を
こなしているのは偏に一護が隊士以上に働いているからなのだろう。
執務机に積み上げられた書類をうんざりしたように一瞥して平子は肩を竦めた。
「働きすぎや一護。ええかげんにせんと体壊すで」
「これくらいいつもの事だ。お前が邪魔しなけりゃ今日中に終わる。…で?俺が遊んでる暇が無いってのは十分判ったと思うが、なんだ?」
そう言いながら、手元の隊長印を取って、読み終わった書類にポンと印を押し決裁済みの箱にぽんっと投げ入れる。そうして次の書類に手を伸ばした時、漸く平子が口を開いた。
「ああ、ちょっと話あんねんけどな」
「…あるから来たんだろ」
じろっと睨むと、わざとらしく「おおコワっ」と仰け反る。
だから、そんな遣り取りをしている暇はないと視線で訴えると平子は仕方なさそうに肩を竦めた。
「まあ、誰もおらんで丁度よかったわ。つーか、今度の人事の話やねんけどな」
「人事?」
その言葉に漸く一護も平子に視線を止める。
「せや、で、モノは相談なんやけどな。オマエんとこの三席ウチにくれへんか?」
まるでお菓子をくれというような軽い口調だが、内容がそれを裏切っていた。
「…うちの三席を?」
確認するようにまじまじと平子を見つめる。
「せや。席はウチの副官でどや。」
「お前の副官って…」
「なんや、忘れた訳やあらへんやろ。この前の虚戦でいてもうてウチ今副官不在やろ」
「ああ…そうだったな…」
つい先日、流魂街の外れに出没した虚は数もさることながら戦闘能力もかなり高かった。
討伐に抜擢された平子率いる五番隊は先発隊と、その後に打って出た副官率いる後発隊が悉く壊滅状態に陥り、結局隊長自らと他隊の助力で漸く殲滅したという平子にとっては苦い結果となった。
その為、今現在五番隊は副官が不在。以下席官も何名か空いたままの状態で、近々それについての調整人事が行われる予定になっていた。
最終的な人事の決定権は総隊長及びその上の四十六室が決定を出すのだが、個々の能力を一番間近で見ているのは現場に他ならず、隊士の異動に関してはこうして非公式に隊長格同士の話し合いによって粗方決められているのが現状だ。後はそれを書類にして裁決を待ち、晴れて異動という運びになる。
尤もよほど一隊だけに能力が偏っているという事が無い限り、それが覆るという事はない。
もちろん、隊長格ともなれば、それに伴う試験というものがついて回るが、基本副官までは自隊の隊長にその人事権が委ねられている。もちろん、降格は兎も角昇級や異動となれば受けるも受けないも本人には拒否権というものがある。
「三席か…」
平子の口からでた自隊の三席を思い浮かべながら一護が頬付えを付いた。
平常ならば、三席から副官への昇級というのは望んでも中々果たせるものではないし、名誉な事には変わりないのだが…。
「なんでまた、あいつを?」
さらりという一護の口調にはなんの含みも読み取れない。
「まあ、適任やろと思ってな。いずれ嫌でも上がるんは目に見えとるやろ。仕事は卒ないし優秀やし真面目やし。まあ、真面目すぎておもんないけどそれは俺んとこで教育しなおしたらええやろ」
「面白いのがいいんなら、ひより連れてけば十分面白い隊になると思うぜ」
「あっ…あほかっ!あんなんいるかっボケェっ!」
「毎日が漫才みたいで十分楽しいと思うけど」
「冗談でもそないな事言うなや!犯すどこのドボケがっ!」
「その前に斬るし」
「おおー!斬ったらんかいワレぇ!」
「…平子隊長…」
「真子や」
「…真子…」
ふうっと一護が嫌そうにため息を落とす。
この調子に付き合っていては時間がいくらあっても足りない。
「誰も居ない方が都合いいんだろ?さっさと話進めねぇと肝心の本人が帰ってくるぜ」
「わーっとるわい。オマエがひよりとか言い出すから話ずれたんやんけ」
「わかった、悪かったよ。…で、本気でうちの三席欲しいってんだな?」
「まあ、手塩に掛けた部下を余所に出すんは思うところあるやろうけどな。入隊以来ずっと三番隊やったんやし」
「ああ…そうか…そうだな…。」
その言葉に今気づいたかのように一護が呆けた返事を返した。
「なんや冷たい隊長やな。オマエんとこの隊士のほとんどは黒崎隊長に憧れて言うん違うんかい」
「憧れてるかどうかは知らねえよ。まあ、みんなちゃんとやってくれてるから助かってるけどな」
護廷での各隊はその率いる隊長によって色濃くカラーが別れる。
一護率いる三番隊は一護自身の自覚はないが、隊士のほとんどが黒崎隊長至上主義だ。
その少年のような見かけを裏切って、一護は隊長としての経験は優に五百年を超える超ベテランだ。
戦闘能力はずば抜けて高く、書類仕事も卒がない。同じ隊長格は元より部下からも慕われ敬愛される。つまりどこをとっても非の打ち所がない死神の憧れとすらされる存在だった。その一護と同じ隊に配属されるという事は、それだけで他隊の死神から羨望の目で見られ一目置かれる。一護は隊士には優しいが、それでいて努力しない者は許さない主義だったので、必然的に一護から目を掛けられる為にはみんな必死で努力する。その為、三番隊の死神達は自然と何処へ出しても恥ずかしくない程磨き上げられてゆく。だが、他隊に比べて外への人事の異動が極端に少ないのは誰もがこの三番隊──黒崎隊から出て行きたくないからだった。
「で、どや」
平子の言葉に一護は少しの間逡巡してから、ふうと大きく息を吐く。
そして決心したように平子を振り仰いだ。
「…まあ…悪い話じゃないな。
確かにうちも三席手放すのは痛いけど…今はそんな事言ってらんねえか」
「ならオマエから話通しといてくれ。あ、くれぐれも五番隊の悪口なんか言うなや!?」
「俺がわざわざ言わなくても五番隊のいい加減さはよーく知ってると思うけどな」
「なんやて?」
「んじゃ、話終わり。帰っていいぜ、平子隊長」
以上、というように一護がひらひらと手を振る。さっさと帰れとばかりの仕草に平子はこれまたいつも通りにキィーとなり、相手にしない一護に散々無視されてから漸く気が済んだのかするりと隊首室を出て行った。その姿を見送ってから、一護は手に取っていた書類を置いて背もたれに体重を預ける。
平子が副官にと欲しがる三番隊第三席───。
その男の姿を思い浮かべて一護は誰にも見せたことのないような酷薄な笑みを浮かべた。
「…私が…ですか…?」
「そう、お前が。どうする?惚右介」
一護から出た話に、思わず藍染の目が見開かれた。
普段動揺など微塵も見せない男だが、よほど以外だったのか、口を吐いた一人称が『僕』ではなく
『私』になっている。
「…黒崎隊長のお考えは」
一瞬動揺はしたものの藍染はすぐさま一護の真意を問うた。自分の身の振り方以前に、一護の考えの方が重要だと言うように、藍染は一護の言葉を待つ。
こういう所はこの男の美徳だなといつも一護は思う。何をするにも、まず、一護ありき。それは徹底した藍染の信念のようなものだった。そしてその絶対的な忠誠は一護にとっては何よりもまず必要な物だった。
この──世界を潰す為には。
一護の為だけに生き、一護の為だけに戦い、死ねるような絶対的な忠誠心。
自隊の隊士が隊長に向けるそれとは似ているようで遙かに強いそれ。
心酔ともとれるその思いと、死神としての能力──。
藍染惚右介は本当に一護にとって使える部下だった。もう一人の盲目の部下、東仙要と共に。
「俺はいい話だと思う。ゆくゆくはお前は外に出すつもりだったし…事を起こすまでには隊長格になってて欲しいしな。…それに…副官に欲しがってるのは平子だし」
何かを思案するように言う一護の言葉を、一つも聞き漏らすまいとするように藍染が耳を傾ける。
それは語られぬ言葉すら読み取れぬようでは側に居る資格すらないとでもいうように一心に一護を見つめる。その瞳に、ふっと怪訝が灯った。
「平子隊長…ですか…。」
「ああ」
「隊長は…、どう見ます?あの男」
「…やっかいだな…」
ぽつりと一護が漏らす。
「いいかげんに見えるが、恐らく今の護廷で一番怖いのはあの男だ。…たぶん…今回お前を欲しがってんのもそのせいだと思う」
「そのせい…とは…」
「お前の本性を見抜いてる可能性があるって事だよ」
そう言って一護はじっと藍染の目を見据えた。
「ああ…お前がボロ出してるとか、そう言うんじゃねえよ。もしそうならその時点で既に俺が斬ってる。ただ、ああいうタイプは本能で人を見るから…面倒なんだよ」
「では…私が側にいるのは避けた方がいいのでは」
「違う。逆だ。疑ってるからこそ側に居た方がいい。その方が都合がいい。…たぶん、な」
「わかりました。貴方がそう望むなら…」
そう言って藍染が膝を折る。そして、許しを乞うようにそっと一護の手を取り額へと押し当てた。
「惚右介?」
「…すみません…。ただ…こうして貴方の側に居ることができなくなるかと思うと…」
「…別に護廷ん中だろ。感傷に過ぎるな惚右介」
「ええ。…それでも…貴方の背中は私がずっと守っていたかったと…」
一護の手を取り項垂れる藍染の髪を一護は伸ばした手で何度か梳き、おもむろにその髪を掴んで上向かせる。
「惚右介。勘違いすんなよ。お前が俺を守るのは、この護廷でじゃない。たかだか隊離れるくらいで何言ってやがんだ?そんな安っぽい感傷なんかはいらねえんだ。」
「…わかっております。ただ…それだけではなくて…」
「…なんだよ」
藍染の縋るような声のトーンが僅かに変わるのに一護は掴んでいた髪を放して怪訝そうに首を傾げた。
「この三番隊の事です。私が抜けた後はどうされるお積もりですか?ただでさえ仕事が山積みですのに。正直あの副官だけでは心許ないですし…。
これ以上一護様にご負担があるような事があってはと」
先程の一護の態度に完全に忠臣モードに入ったのか、藍染は一護を隊長ではなく一護様と呼んだ。
普段なら護廷内でのこの呼び方は決して許さないのだが、隊を移るという藍染にとっては苦汁とも言える選択を文句一つ言わずに呑んだのだから、今日だけは大目に見ようと一護は敢えて突っ込まなかった。
「まあ…な…。確かに、俺もこれ以上仕事が増えるのは勘弁だけど…。まあ、副官については…ちょっと考えてる事はあるんだ」
「それを…聞いてもよろしいでしょうか」
「……ま、いっか。たぶん2、3年先にはなるだろうけど…一人面白い奴見つけてんだ」
そう言った一護の目が、ふっと悪戯っぽく笑う。
「面白い…ですか?」
「そう…。たぶん、ゆくゆくはお前にも関係してくるだろうよ」
「…では…『貴方の』下に付くという事ですか」
「たぶん、…な」
「それは…一体…」
果たして、この護廷にそんな人材がいたのだろうかと藍染が頭を巡らせる。それとも、護廷ではなく他隊か、もしくはまだ霊術院なのだろうか。
そんな藍染の考えを見越したように一護はくすくすと笑い出す。
「いや、まだ瀞霊廷にはいねえよ。霊術院にすら入っちゃいねえ。この前流魂街で見つけたんだよ。
本当に俺の所に来る気があんなら、来年度あたり院に入ってんじゃねえかな」
「──それは…貴方の事を知った上での事なのですか?」
一護の言葉に藍染が目を見開く。一護の用心深さは徹底している。自分よりも遙かに長い時間を共に過ごしてきた他の死神ですら、本当の一護自身を知るものなど居はしない。
あの一護自身が鋭いと言い放った平子ですら、藍染を疑うことはしてもその目を一護に向ける事はない。
その一護が、まだ物になるともならないとも付かないような流魂街の子供に自分の正体を明かす事などあり得ない。
驚愕の表情を浮かべる藍染を面白そうに見ながら一護が楽しそうに笑う。
「だから、面白い子供なんだよ。たぶん、あれは天才ってやつだな。思考回路がちょっと常人とずれてんだよ。育つと結構怖いと思うぜ。」
「…天才…?あの志波くんのような…ですか?」
「ああ…志波海燕か…。そういやアイツもそう言われてたんだっけな。いや、たぶんあの子供はそれ以上だ。それに…性質がな…」
「…私達に近いと…?」
「おそらく、な。たぶんお前も一発で見抜かれるぜ?」
「それは…楽しみですね…。でも…」
「でも、なんだよ」
「少し妬けますね。貴方がそんなに楽しそうだと」
「…くだらねえ事言ってんじゃねえよ」
「貴方にとっては下らない事でも…私には重要な事です」
そう言って藍染が一護の膝を抱く。見た目には一護よりも年上に見える藍染が、この少年の姿をした隊長に縋り付く。それはまるで、幼子が必死で母親に縋り付いているようにも見えた。
一見すると一護はまだどこか幼さを残した少年の様な姿をしている。けれど、見かけを裏切って、一護はこの姿のまま遙か長い時を生きてきた死神だった。周りの死神がどんどんと、青年そして壮年の様な姿になっていくのに反して、一護はまるで時を止めたかのように少年のまま留まっていた。
藍染すらも、この三番隊に配属された時はまだ見かけは少年のようだったのに、いつの間にか背も顔つきも一護を追い越し、今ではどう見ても藍染の方が年上にしか見えなかった。
一護と共にこの世界に背を向けると決めた最初のきっかけすらもう朧気になる程、藍染は長い時を一護だけに仕え一護だけを見てきた。二人でこの尸魂界を潰そうと──一護の為に自分の持てる力を全て注ごうと動く事は藍染の誇りだった。使える駒はあるに越したことはない。それが優秀なら尚更。
それが判ってはいても、実際東仙を引き入れる時に藍染はまるで一護を分け与えているような錯覚に陥ったものだ。決して、誰のものでも──ましてや自分のものでもない一護を。
恐ろしいほどに強く、時には恐ろしい程に冷たく冷酷な面を持ちながら、それでも一護は限りなく優しい。
この自分の妄執と言える程の情念を忠誠をいう名にすり替えた男を許すくらいに。
「…抱きしめさせてください…」
触れることを許して欲しいと、絞り出すように告げる藍染に一護は一つため息を落とす。
「ったく…仕方ねえな…。いいぜ、こいよ、惚右介」
「一護様…」
そっと腕を伸ばしまるで壊れ物を扱うようにゆっくりとその背を抱きしめる。
力を入れれば壊れてしまいそうな細い体。
まだ少年のような骨格の上に纏うしなやかな筋肉。
この体の何処にあれ程の強さを秘めているのか。
この護廷の「戦神」とすら謳われる一護が、いずれ時を得た時にその刃を自分たちに向けるだなどとは誰も思わないだろう。
その時の彼らの絶望を思うと昏い喜びが藍染の内に沸き立つ。
「愛しています…一護様 貴方を…貴方だけを…」
許しを乞う事もせずそっと触れた唇に一護が応える。
「──わかってるよ、惚右介」
吐息と共に返された言葉に藍染の口付けが深くなる。
時はゆっくりと、その瞬間を刻みだした。
第一章 end
|