
夕飯を終えて風呂からあがると、どさりと自室のベッドに沈み込む
まだカーテンを引いていない窓から明るい月が見えた
…痛てぇ…
風呂上がりの上がった体温に、鬱血した箇所がわずかにうずき出し、一護は顔をしかめる
一護の身体のところどころに散らばる赤黒い痣と擦り傷
放っておいても数日で跡形もなく消えてゆくそれは、すべて喧嘩によるものだ
めんどくせえ…
ふうっと、少年らしからぬ重いため息を吐く
一護は今年中学二年になった
この目立つ髪と、すでに定着してしまった眉間の皺と目つきのせいなのか、中学に上がってから
やたらと絡まれることが多くなった
最初は無視しようとしたが、いつも相手はしつこく、一護が相手にするまで引き下がる事はない
結局、必然的に拳を交える事となり…
生来の運動神経の良さなのか、習っている空手のお陰かは知らないが、一護は未だ負けなしの
連勝記録更新中だった
そうなると、今度は学校内だけでは済まされず、他校からも噂を聞きつけてやってくる
入学してわずか一年で、一護は近隣の学校では既に有名人となっていた
もう、放っておいてくれと思う
喧嘩で有名ともなれば、必然的に教員の受けは悪くなる
元々短気な自分も悪いとは思うが、因縁をつけられておとなしくしているほど人間ができている訳ではない
絡まれなければ、一護から絡むことはまずないし、これでももめ事は嫌いなのだ
勝手に貼られた『不良』のレッテルが一人歩きをはじめ、学校も生徒もまるで腫れ物に触るように一護に接する
ただ、静かに、普通に学校生活を送りたいだけなのに
今では周りがそれを許さない
空にぽっかりと浮かぶ月を眺めながら、一護はまたひとつ息を吐く
会いてぇな……
ぼんやりと思う
夜空に浮かぶ銀色の月はあの男を連想させる
輝く月のようなみごとな銀髪をもつ長身の男
──市丸ギン
長身痩躯、漆黒の闇を思わせる黒装束に白い羽織を纏う男
だが、彼がこの世に生きる人間ではないことも、一護は知っている
昔から、当たり前のように一護の側にいる、いわば『ユウレイ』
気まぐれな猫のように、ふらりとやってきては、いつもふらりと消えてゆく男
物心が着いた時から、当たり前のように霊が見えていた一護にとって、常人には見えないなにかに
接することへの恐怖心はない
彼らは確かに色々面倒な事もあるが、基本的には無害なのも一護は経験上よく知っている
ただ、普通に会話を交わし、時には一護にできる範囲での我が侭を聞いてやり…
そうすると、いつの間にかふと消えてゆく
人の言葉に耳を傾けることさえしない、肉体を持った莫迦よりも、よっぽど礼儀正しいとさえ思う
彼らはただ、自分の言葉が姿が理解されるなにかを求めていて…、
だから一護がオレンジの髪をしていようが、目つきが悪かろうが、そんな事は一切気にも止めない
ただ、自分の要求を満たしそれが満たされると去ってゆく、それだけだ
ギンが…あいつが、そんな他のユウレイとは少し違うのだと知ったのはいつの頃だろう
初めは、そんな事など思わなかった
いつものようにただ話し、それに満足すれば他と同じようにいつの間にか自分の前から消えるのだろうと思っていた
けれど、狐のお面を彷彿とさせるその笑い顔は、何年経とうと相変わらず一護の側にやってくる
メディアの受け売りなのか、つたない知識で『成仏』という言葉を知ってからは
ことある事に、さっさと成仏しろと言ったのに
独特のイントネーションでのらりくらりとそれを躱す狐に、いつしか一護もそれを言わなくなった
突然目の前に現れて、唐突に消えてゆく幾多の霊
一抹の寂しさは覚えるが、無事に成仏できたのならそれでも良いと思う
思うのに…
なぜかギンだけは、居なくなるのが嫌だと思う
いずれ、あいつも消えて無くなるのかな……
そうなった方が、きっとあいつの為なんだと思いながらも、当たり前のように側にいる彼が消えるのが嫌だと思う
約束などした事はない
あっさりと、『ほな、またな』と去っていく彼に、次はいつ会えるのかと聞いた事はない
ギンが、『また』と言うから、次があるのだと必然的に思っているだけだ
けれど……
それは、本当にそうなのか、と最近になって不安に思う事が多くなった
これがもし、生きてる人間なら
きっと自分は聞いていただろう
次はいつ会えるのかと
友人と交わす会話のように、さりげなく次の約束をし、そしてそれが果たされる事になんの不安も
抱かなかったはずだ
誰よりも身近で、誰よりも遠い存在
肉体を持つものと持たざるもの
真意が見えぬ笑みを貼り付けながら、彼が自分に対して誰よりも優しい事を知っている
関係ない事はペラペラ喋るくせに、その優しさを見せるときだけ、僅かにとまどう不器用さも知っている
誰よりも近くに、一護の悲しみに寄り添ってきた存在
「なんで…来ねえんだよ……」
ぽつりと呟いて
ようやく、ああ俺は今悲しいんだな…と自覚する
強くありたいと思う
大切なものを護りたいと思う
弱い自分なんかいらないと思う
自分を守るため 家族を守るため
自分は強くあらなくてはならないと自分で決めた
弱音を吐く自分を浅ましいとさえ思う
母を亡くしたその時から、自分には悲しむ資格さえないと思ってきた
その自分を
唯一素直に悲しいと思わせてくれる存在
たった一人だけ───
弱い一護を抱きしめる事を許した存在
ただ、抱きしめ甘やかし癒してくれる
幼い心に、その恋情が混じったのはいつだろう
この世界に存在すらしない、それも男に、どうしようもないほど恋い焦がれたのはいつからなのか
その腕の温もりも、その匂いも、その顔も声も
幼い性に目覚めた時からなのか
一護にはそれがときおりたまらなく居心地が悪く思える
ずっとこの腕に抱かれていたいのに、まるでそれがいけない事をしているような罪悪感すら覚える
なのに───
罪悪だと思う傍らで、見知らぬ感覚がもっとその温もりを欲するのも感じている
名前もつけられないその感覚がざわざわと胸をかき乱す
ギン───
会いたいと
ただひたすらそれだけを願う
会うたびに、これが最後かも知れないと苦しくなる
気まぐれに現れて気まぐれに去ってゆくこの世ならざるもの
この腕を無くしたら、自分は壊れてしまうのではないかとさえ思う
だから、告げられない
この胸の中に渦巻く、幼い恋心を
告げたが最後、彼が居なくなるのは耐えられない
受け入れてくれるとかくれないとか
そんな事は二の次になるほど
ただ、側に居て欲しいと願う
「ギン……っ」
悲しく光る銀の月
ふと零れ落ちる涙に、一護はそっと目を閉じる
『またな』
そう言って踵を返す後ろ姿
その白い背に刻まれた『三』の数字が、今の一護にはとてつもなく悲しかった
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