
その男に会ったのはたった二度
出会ってすぐに刃を交え、会話とも呼べない短い言葉を交わし、たった一突きで分かたれた
二度目に会った時はもう、言葉すら交わすこともなく───
その時すでに男はすべてを捨て去っていた 何もかも
傷ついた身体で、明かされる真実に耳を傾けながら、一護はただ虚空に消えていくその姿を
目で追うことしかできなかった
すでに日常と化した虚退治をさくっと済ませて、遅れて到着したこの地区担当の死神に後の処理を任せると、一護は家に帰るべく軽く屋根を蹴った
時刻は真夜中 外灯も少ないこの一画が月明かりで妙に明るい
ふと、足を止め空を見上げてから、一護はきゅっと唇を噛む
尸魂界の一件が終わりこの現世に帰って来た時から、一護は月明かりが苦手になった
冴え冴えと銀色に輝く月があの男を思い出させるからだ
たった二回しか会ったことのない──知り合いとも呼べない相手
しかも、今や自分が倒さなければならない敵
それなのに、気がついたらいつもこうして月を見上げている
彼を思い出させる銀の色を、こうして───
「なにやっとるの?」
「────!?」
まるで気配などない空間から、独特のはんなりした声をかけられて、一護は驚いて振り返る
この場に居るはずもないその声の持ち主を想像し、とうとう自分の頭がおかしくなったのかと思い
振り返ったその先に、今自分が思い描いた人物を見つけて、一護の目が驚愕に見開かれる
「どないしたん?そない驚いた顔して」
開いているかどうかわからない細い目とつり上がった口角
色素の薄いつるりとした白い肌と銀色の髪が青白い月光を受けて尚更青く見える
護廷の隊長羽織を脱ぎ捨て、見慣れない白装束を纏ったその姿
決してここに居るはずのない人物
そして、決してこの場にいてはいけない男
尸魂界謀反の大逆人の一人───
その男──市丸ギン
「……なんで……あんたが……」
「なんで…って、ひどいなあ せっかくこうしてキミに会いに来てんのに」
くつりと笑ってそういう市丸に、一護の目が眇められる
なんで…と、そう聞こうとして、次の瞬間口のなかがからからになっている事を知る
背中にある斬月に意識をやり、今この手に握られていない事を後悔した
たぶん、この男は──強い
負ける気などはさらさらないが、恐らく自分が斬月に手をかけるまでの一瞬にこの男は斬りつけてくるだろう
その一護の胸中を見越したように、市丸は再び口角を上げると、次の瞬間一護に向かって両の掌を開いた
「そんな警戒せんと ボクはキミと戦う気ぃなんかあらへんよ」
ほら、と広げた掌を軽く振る
「ああ、もう…ちょっと落ち着き そんな猫みたいに全身の毛ぇ逆立てて警戒せんかてボクは
なんもせえへんよ
そりゃ…、まったくの丸腰言う訳にはいかへんけど、ほら霊圧かて消してるやろ」
確かに、目の前の男からは気配どころか霊圧すら感じられない
殺気というものもまるでなく、まるで旧知の友人に会いに来たような気安さを纏っている
だが、それだけで信用しろというには無理があることくらいこの男にも分かっているはずだ
その市丸の真意が分からずに、一護は警戒を露わにしたままかき集めた唾液をこくりと
飲み込んだ
「…だったら…なんで…こんなトコにいるんだよ…」
絞り出すように口にすると、市丸の笑みがさらに深くなる
「やから言うたやん キミに会いに来たって」
「…なんで…」
飄々とした態度を崩さず、さらりと言う市丸の台詞に一護は疑問符を繰り返す
第一、なぜこの男が自分に会いに来るのだろう
この男と自分の間には関わりと呼べるものなど何もない
知り合いと言うほどお互いを知っている訳でもなく、謂わば一面識がある程度
一度刃を交えたとはいっても、自分も相手も削るような死闘とはほど遠く、それ以前に戦いと
呼べるものですらなかった
どうして、この男が会いにこなくてはならない
次に会う時には敵としてだと、心に決めていたのに───
次第に粟立つ感情を抑えながら、真意を探るように見詰める一護に市丸はやれやれと言うように肩をすくめる
「なんで言うても… そんなん理由なんかあらへん」
「え?」
「キミに会いとうなったから、会いにきたんや なんでそんなことに一々理由つけなならんの?」
「…なに言ってんだ…てめぇ…」
ドクンと鼓動が耳元で聞こえた気がした
投げつけるはずの声が震える
次々と言い放たれる市丸の台詞に一護の頭は次第に混乱してゆく
とても信用できるものではないが、どうやら本当に市丸は一護に会いに来ているらしい事は分かる
だけど──そんなの、自分に言う台詞じゃない
そんな台詞を言われるべき相手はもっと他にいるだろうにと思う
そこで、一護はふと唯一彼が自分に会う為の理由を見つける
だが、
「ちゃうよ 藍染さんに言われたからでも、勧誘でもない」
ようやく思い当たった理由もばっさりと切り捨てられる
もう、訳がわからなかった
目の前にこの男が居るだけで、ひどく動揺しているのがわかる
ぐらぐらと揺れる心が、決して見ようとしなかった感情に目を向け始める
それに耐えるように一護はぎりっと唇を噛みしめた
「…ああ…思った通りや…」
ぽつりと呟くように零された市丸の言葉に、一護は思わず噛みしめていた口元をほどく
「…え…」
いつの間に近づいたのか一護の視線が市丸の目を追うように上がり、一護はすぐ目の前に立つ
市丸との身長の差を改めて感じる
初めて会った時の細身の印象のせいか、もっと小柄なのかと勝手に思っていたけれど
こうして今目の前に立つ市丸は、痩躯ではあるが体つきはやはりきちんと鍛えられた大人の
男のものだった
何にも──本当に何も知らないのだと思う
冷たい翳りを持つ銀色の月のような男
たった一度、僅かに触れた青白い炎を思わせる霊圧
はんなりとした柔らかい声を裏切るようなその張りついた笑みの下にあるものも、背景も──
何もかも
自分はこの男の事をなに一つ知らないのだと改めて思わされる
目の前で笑う市丸の顔を見上げながら、自分はこの男の名前さえ呼んだ事がないのだと
気がついた
知り合いですらない関係
それを改めて思い知る
それが──どうして今、こんなに悲しいのだろう
市丸を見詰めたまま目を逸らすことすらできなくなった一護に、するりと市丸の白い腕が
伸ばされる
するっと指が頬を滑る感触に、一瞬びくっと一護の身体が震えた
自分よりわずかに低い市丸の体温
もっと、ずっと冷たい印象だったのにこうして触れられていると意外と暖かいのだと気づく
それでも、触れられる指先から熱を送り込まれるように上がり続ける自分の体温に、だんだんと
開き続ける市丸の指との温度差がひどく心地よく思えてくる
振りほどかなければと、心のどこか遠くで警鐘が鳴る
それが分かっていながら、一護は身動き一つできないでいた
ゆるゆると愛しそうに触れてくる指先
その指に頬をなぞられるたびに、一護の身体がぞくりと震える
体温が上がり、瞳が潤みはじめる
「ほんま…そんな瞳ぇしたらあかんやろ…」
一護の頬に指を滑らせながら、市丸の表情が僅かに悲しげに曇る
言われたことの意味がわからずに、一護はまるで問いかけるように一つ瞬くと市丸が
ふっと苦笑を漏らした
「…そんな悲しそうな顔で…たまらんような瞳ぇで…人のこと見るもんやない…」
「…なに…」
市丸の言葉に漸く一護が口を開く
だが、熱に浮かされた身体からは、呟くような掠れた声しか漏れ出ることはなかった
「おんなしや…あん時と… おんなし瞳ぇしてるわ…
あん時、見とったやろ そうやって、ボクのこと…ずっと」
「───!」
「ボクもそうや あの光の中で… ボクもずぅっとキミのことばかり見てた」
「…なんで…」
市丸の言葉に一護の脳裏にあの場面が思い出される
すべてが明らかになった そしてすべての終演の場となったあの丘──双極
遙か虚空に登ってゆく三つの光を見ながら、一護がずっと目で追い続けていたのはまぎれもなく
この男だった
そう、あの時
遙か遠くにいながら、なぜかずっと視線が合っているような気がしていたのだ
自分のいた場所も、立場も、仲間も、すべて振り捨てたこの男が虚空に消えるその瞬間まで
彼が見つめていたのはたしかに自分だった
何度も──何度も、気のせいだと思おうとした
そんな訳があるはずはないと
どうしてだと──何度も何度も自問した
彼も自分も……まるで縫いつけられたように外すことができなかった視線
そんなのは思い過ごしだと思おうとして──
だけど
「なんで…あんたが……」
気のせいだと
思い過ごしだと、言ってほしかったのに
そうすればきっと、こんな感情忘れることができたのに
この男のことが忘れられないと思う自分を笑うことができたのに───
まるで、縋るように呟く一護に、市丸がその細い瞳をゆっくりと開ける
初めて見る氷河の様な青い瞳の色が一護の瞳にさらされる
そして、言い聞かせるように市丸が言葉を紡ぐ
「それを…キミがボクに聞くん?」
「え…?」
「やったら、なんでキミはボクを見てたん?」
「なんで…って…」
そう聞かれて一護は言葉に詰まる
それが分かっていたかのように市丸はゆるりと笑みを作る
「理由なんかあらへんやろ ボクかてそうや 理由なんかあらへん
ただ、キミから目ぇ離せへんかっただけや」
「お前も…」
「そうや なあ…おかしい思わへん? たった一度会うたっきりやのに、ボクがあの場で
最後の最後まで見つめとったんは、そのたった一度会うたばかりのキミやった
キミは知らんやろうけど…あの場にはボクの幼なじみも居ってんで?」
「…乱菊さん…」
「なんや、知ってるんや」
その、幼なじみの女性の名を呟く
すでに一護にも馴染みのある人だった
明るくさっぱりとした極上の大人の女性
あの後の滞在中に人づてに、そしてその本人からもその事は告げられいた
その時の彼女の顔が、僅かに悲しげに曇るのを一護は堪らない思いで見ていたのだ
「仲良かってんよボクら まあ半分はケンカ友達みたいやってんけど…
さすがに悪い事したなあ思うんはあの子の事くらいや」
「だったら、何で…っ!」
「なにが『何で』なん?なんで裏切った言うの?
それとも、なんで連れてけへんかったとでも言うん?」
市丸の言葉に一護は二の句が継げなくなる
お前の大事な人なんだろうと…だったら裏切るなと、一緒にいろと…そう言うつもりだったのに
一護の口から言うはずだった台詞を市丸の口から聞かされて、一護の心臓がこれ以上ないほどに
早鐘を打つ
聞きたくなかった
どんな答えでも
この男の口から、彼女に対するどんな言葉も聞きたくなかった
悔しくて、悲しくて、涙が出そうになる
自分の決して知り得ない長い時間を共に過ごした女性
なんの思い出も──ましてや、彼の中での存在すらない自分
彼女と自分では、彼の中の存在価値そのものが違いすぎる
苦しくて、苦しくて、胸が張り裂けそうに痛む
もう、言わないから…もう二度と彼女の名前を口に出さないから…
お願いだからこれ以上は何も言わないでくれとそう願う一護に、市丸は一つため息を吐いて
きっぱりと言い切った
「──必要ないからや」
「これから先、ボクがたどる道にあの子は必要ないとボクが思うたからや
確かに少しは悪いなぁ思てんけど、そんなんあのオッサンに付いた時からこうなるんは
分かってたし…
それに元々ボクと乱菊は恋人でもなんでもないしな 別に後悔もなんもしとらへんよ」
その市丸の言葉を聞きながら、安堵する自分を一護は感じていた
そして、ようやくそれが彼女に対する嫉妬だったと言うことに気づく
「…なあ…、なんでそんな事聞くん?」
自分の感情に整理がつかないまま市丸から問われて、一護はきゅっと口を引き結ぶと
吐き捨てるように言う
「聞くって…お前が言い出したんだろ!乱菊さんより俺を見てたとか…あの人に悪い事したとか…
先に言い出したのはお前の方じゃねえかっ!」
まるで…不貞を働いた恋人に嫉妬をぶつけるような台詞に、一護の中の冷静な部分が
何を言ってるんだと叱咤する
だが、一度口に出た言葉が引っ込むはずもなく、我に返った一護は、しまったというように
唇を噛んだ
「やってキミ…聞きたかったんやろ?ボクと乱菊の関係…知りたかったんちゃうの?
ボクが…あの子をどう思っとるんか、ボクの口から聞きたかったんちゃうの?」
「────!」
なんで…この男はこうも一護の心の中を覗き込んだような事をいうのか
口調こそ質問しているようだが、その実それが真実だと言わんばかりの台詞をなぜ一護に
突きつけるのか
もう、たくさんだと思う
もうこれ以上、心の中をかき乱さないで欲しい
気づきたくない感情に気づかされるのはご免だと思う
「…離せ…よ…」
触れたままの指先
初めて知る男の体温
そんなものは、いらない
こんな感情は──いらないのに
震える声でそれだけを告げれば…市丸の表情からふっと笑みが消えた
「なんで」
短くそれだけを言う
「はな…せ…」
薄氷のような瞳から目が離せずに、一護は市丸からこの手を離してくれる事だけを願う
「いやや、言うたら?」
「───っ!」
そんな一護の願いをすっぱりと無視して、市丸は拒絶の言葉を吐く
「なんでボクから離れなあかんの… どうしても離れたいなら自分から離れたらええ
それくらい…いつでもできるやろ」
聞き分けのない子供に言い聞かせるように言いながら、市丸の顔がそっと近づく
それができるならとっくに離れている
なのに…どうしても一護の方から離れる事ができないのだ
この男から…どうしても離れられない
がんがんと頭が割れそうに痛む
ドクドクと体中の血液が沸騰する
さっきから煩いくらいに響いているのは自分の心臓の音なのか
薄氷のような瞳の色が視界一杯に広がる
互いの睫毛が触れ合うほどの距離でその視線に耐えきれずに
そっと落とされた一護の視線の先に、男の整った鼻筋が映る
「…逃げへんの…?」
噛みしめた唇に男の吐息がかかる
その言葉に、頷くことも拒絶を吐く事もできず耐えきれないように瞳を閉じた一護の唇に
市丸のそれが落とされる
そっと触れ合うだけの口付け
その僅かに唇に感じる熱は確かにこの男のもの
けれど…その熱よりも一護の胸は切なさばかりを感じていた
市丸の唇が、触れてきた時と同じように音もなくそっと離される
その熱が遠のくのを寂しく思いながらそっと息を吐くと再びその吐息と共に口づけられた
いつの間にか頬にあった市丸の指は頤にかけられ、もう片方の腕で腰を引き寄せられる
何度も何度も角度を変えて落とされる市丸の唇に一護は縋るように震える指で市丸の胸元を掴む
「…ん…」
ただ触れられるだけの口付けに切なげに吐息を零せば、市丸の濡れた舌がそろりと一護の
乾いた唇を舐めた
「…ふっ…」
その感触に思わず身体を震わせた一護に市丸が舌を這わせながら囁く
「口…開けて…?」
「ん…」
そっと紡がれるような声に誘われるように薄く口を開ければ、それを見計らったようにぬるりと
市丸の舌が潜り込んできた
「んっ」
生まれて初めての感触に、思わず逃げを打ちそうになった一護の頭を頤に添えられていた手が
後頭部に回り逃がさないと言うようにしっかりと固定される
思ったよりも熱い舌が歯列を遊び歯茎に這わされ緩んだ隙間から奥へと進入する
上あごを舐められ奥で縮こまっていた舌を探り当てると、あやすように絡め取られる
「…ん…ふっ…ぅ…」
一護から甘い息が漏れ出す頃にはすでに一護の思考もこの男の口付けを享受することしか
考えられなくなっていた
貪るような激しい口付けに、一護は市丸の首に手を回しまるでもっと、と強請るように引き寄せる
引きずり出された舌は市丸の口腔に招かれて市丸の舌の動きに合わせて絡まり、甘噛みされ
またなぞられる
ツキリとした痛みすら快感にしかならない
求められるままに舌を差し出し裏側も舐められ唾液を注がれる
こくりと喉を鳴らし市丸から注がれる唾液を飲み込んでゆくけれど、口付けが深くなるにつれて、
飲み込み切れない唾液が顎を伝って雫となり糸を引いて滑り落ちる
もう、何も考えられなかった
この男が何者なのか 自分がこの男にとって何であるのか
好きだとか嫌いだとか、敵だとか味方だとか
もう、どうでもよかった
言いたいことも、聞きたいことも山ほどあって
自分にはしなければならない事もたくさんあって
自分の気持ちにすら折り合いが付けられないのに
ただ、この男から与えられる熱に今はただ酔っていたいと思う
切なくて、悲しくて、苦しい───
こんな苦い感情を自分は知らない
「…あっ……っ」
するりとほどかれた舌に縋るように名残惜しげに延ばされる自分の舌
あさましい欲望を露わにして一護は離れてゆく市丸を追いかける
すでに密着した腰には先程からはしたなく立ち上がった性器がとろとろと密を零しているのが
分かる
恐らくそんな一護の状態に市丸はとっくに気がついているに違いない
けれど、求めるように延ばされた一護の舌を軽く食むと市丸は終わりだと言うように一護の額に
唇を落とした
「……ち…まる…?」
「ん…」
一護の前髪を掻き上げて額に唇を落としたまま市丸が返事を返す
「…キミは…もう、帰り」
「え…?」
一護を抱きしめたまま、そっと囁かれる市丸の言葉に一護は疑問を落とす
「ボクも、そろそろ帰らな… また、会いに来るし」
「…また…?」
その言葉に、一護は無意識にふるりと首を振る
また、あの月を眺める日々に戻れというのか
この訳の分からない感情を抱えたまま、またこの男に会うのか
「…なんで…」
口をついて出た台詞はもう何度目だろうか
なぜ、どうして
その言葉しか自分は言っていない気がする
でも、今思わず漏れた言葉は、市丸に対する疑問などではなく、離れようとする彼への一護の
精一杯の拒絶の言葉だった
その一護の言葉に市丸がくすりと笑う
「なんか自分今日は『なんで』ばっかしやなあ…」
「…誰の…せいだよ…っ」
恐らく、一護の真意をわかっていながらするりと躱すこの男に一護は泣きそうな思いで
吐き捨てる
突然やってきて、掻き乱すだけ掻き乱して、何事もなかったように去っていこうとする男
ずるい、と思う
こんな男に振り回されるのは、ぜったいに嫌だ
このまま流されればそれでもよかったのに
それすらも許してはくれないのか
「もう…来るな…」
次なんてない
こんな苦しい思いからはさっさと開放されたい
こんなに痛い思いを抱えたままこの男を待つなんて、耐えられない
けれど、そんな一護の胸中を知ってか知らずか市丸は残酷な台詞を吐く
「来るよ」
「…来んなっ!」
「無理や…わかるやろ」
「わかんねえよ…」
噛みしめた涙がこぼれ出る
どうして、分かってくれないのか
「あんたは…っ!敵じゃねえかっ!!」
今更、言わずとも分かり切った二人の立場
それを口に出せば、この訳の分からない感情からも、この男からも抜け出せるとばかりに
一護は声を荒げる
「…そんなこと初めから分かっとるよ」
だが、それすらも市丸から軽く流される
「もう…どうしろって言うんだよ… なにがしたいんだ、あんたはっ!」
まるで、子供の癇癪のように怒鳴る一護を市丸はあやすように抱きしめる腕に力を込める
「会いたいんよ…キミに」
低く囁かれる声に一護は嗚咽を堪えるように唇を噛む
「ごめんな…でも、もうキミに会うのは止められへん」
「…なんで…」
「ほんま、そればっかりやなキミは… わからんのやったら、ボクが次来るまで考えとき」
「なに言ってんだよ…てめえは… もう会わねえっつってんだろ…」
涙で震える声でそう言えば、市丸は幼子にするように頭をぽんぽんと叩く
「ええよ キミが会いたくないなら会わんとき ボクは勝手に会いにくるし」
「なに屁理屈いってんだよ…」
拗ねるように一護が言い返せば、市丸はその顔を一護の髪に埋めてくすりと笑みを漏らす
「屁理屈でもなんでもええねん ボクは我慢なんかせぇへんよ
ボクが会いたい言うんのんをキミは止める権利なんかあらへん」
「あるだろうがよっ!」
「ない キミにあるんはキミがボクに会わんとこ思う権利や
やから言うてるやん、会いたないなら会わんときて 気ぃ済むまでボクから逃げ回ったらええやろ」
どう聞いても屁理屈としか思えないような台詞をぽんぽんと投げつけてくる
これが、この男の性格なのだと一護は遅まきなながらに気がつく
「じゃあ…俺が逃げ回ったらお前は追いかけ回すのかよ…」
呆れたように呟けば、そうだというように頭上で男の頭が揺れる
「そうや、言うとくけど、ボクはしつこいで そう簡単に逃がすつもりもないしな」
なんで…と言いかけて、一護は口を噤む
その答えを知ってしまったら、きっと自分はこの男から逃げられないのだろう
「そういえば…」
ふと、思いついたように市丸が呟く
「キミ、ボクの名前知っとるよね…?」
何を今更…と思うが、そう言えばお互いに自己紹介した覚えなどない
「…知ってるよ 市丸ギン、だろ」
他人から聞いた名前
そのどれもが、沈痛な響きを持ってその名を発した
「そうや…ギンや 忘れんといてな」
初めて男の口から聞くその名前
ギン…と口の中で呟けば、それが聞こえたように市丸が笑った
「お前も…俺の名前、知ってんだろ」
そういえばこいつは初めて会った時はもう、知ってたな…と思い返す
恐らく浦原から寄越される動乱の引き金として、その名前を知っていたのだろう
「うん…知っとるよ 黒崎一護…やろ」
「おう…」
「キミの名前は一度聞いたら忘れられんもんなあ… 名前もやけど…その姿も…」
「だから…っ!」
市丸の言葉を遮るように、一護が声を上げる
「…だから…お前も…俺の事を名前で呼べよ… キミとかいうな…気色悪い…」
次はないと言っておきながら、この男に自分の名を呼ぶ事を強要する自分
辛いのも、苦しいのも…会いたくないのも本当なのに…それでもせめてこの男の口から
自分の名を呼ばれたいと思ってしまう
「せやね… じゃあ次会うたら呼んだるわ」
「だからっ!次なんかねえっつってんだろうっ!」
暖簾に腕押しのような会話に思わず一護は声を荒げて市丸の腕から逃れようと藻掻く
見かけを裏切って一護が暴れたくらいではびくともしない市丸は、その様子にくつりと笑みを
漏らすと、もう一度一護をぎゅうと抱きしめる
そして
「うん…もうええやろ」
と意味深な台詞をぽつりと零した
「え?」
なんの事かときょとんと見上げる一護に、市丸はにっこりと笑みを返してするりと腕をほどいた
「もう、大分収まったん違う?それやったら、ちゃんと帰れるやろ?」
人の悪い笑みを浮かべながら、ちょいちょいと一護の股間を指さす
「────っ!」
その仕草に、一護の顔は熟れたトマトのように真っ赤に染まる
「ばっ……っ!」
思いつく限りの罵詈雑言をぶつけたいのに、あまりの恥ずかしさに罵声にならない
それにくすくす笑いながら市丸は一護に正面を向けたままひらりと夜空へと踏み出した
「ほなな、また来るわ ──一護ちゃん」
あまりな台詞に二の句が継げなくなっている一護を尻目に、市丸はバイバイと手を振る
そして、身を翻す一瞬、やけに男臭い笑みでもう一度一護に笑いかけるとするりとその姿を消した
残された一護は、市丸の消えていった空を呆然と見上げる
揶揄われた怒りもすぐに退き、後に残るものはただ莫然とした寂しさだけだった
空には銀色の月が輝いていた
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