──秘密──        




最近、一護が落ち着かない。


夏の暑い盛りを過ぎて、暦が9月に変わってもまだまだ残暑厳しい秋の初まり。
ここ武蔵野に居を構える市丸組でも、都心程ではないにせよ日中の暑さはやはり尋常ではないものがある。
それでも盂蘭盆辺りからすれば、木立に囲まれているせいか、夜は幾分過ごしやすくなってきていた。
その夏の終わり頃から、なんだか一護の様子が少し変なのだ。

「…なあ、ギン。明日はなんか用事あんの?」
夕食を終え風呂で汗を流し、二人でのんびりと夕涼みをしながら、さあこれから…と市丸が一護を抱き寄せた瞬間、
一護が飴色の瞳をキラキラさせながら市丸を見上げてそう尋ねた。
「いや…明日は特になんもないな。せやからずーっと一護と居れるよ」
「あ……。そう…」
一護の問いに素早く頭を巡らせてスケジュールを確認し、にっこりと笑って言うと、一護の瞳に僅かな落胆が灯った
気がした。
「なんや、ボクと一緒なんがイヤなん?」
浮かない返事と表情に、わざと意地悪く聞いてみれば「そんな訳ねーだろ」といささか乱暴に市丸の胸に顔を寄せて
くる。

(──なんやの、一体……)

市丸がそう思うのも無理はない。状況は違えど、この遣り取りがこの所ほぼ毎日続いているのだ。
最初の頃は何かあったのかと随分気を揉んだが、一護はこうして市丸の予定を確かめるだけで、その後のリアクションは特になにもない。もしやこれは浮気の兆候か!?とほんの少しだけ心の片隅で疑ってもみたが、ほぼ毎晩に於
ける夜の営みでは、そんな兆しは欠片も見あたらなかった。
一護は心と身体が直結するタイプなので、もし少しでも他に心が動いていればコトの反応に素直に出てくるだろうと
市丸は踏んでいた。だが、相変わらずアノ時の一護は素直で可愛いし、何処までも疑り深い市丸が素直に一護から愛されていると思えるだけのものを一護は返してくれている。
夜以外でも、相変わらずイヅルや他の組員達から『砂吐きそうに甘い』と言われている状態なので、一護の気持ち
自体に変化はないと思うのだが…。
(特に寂しがらせたりはしてへんつもりやけどなぁ…)
もしやこれは、世間一般に言う『亭主元気で留守がいい』というやつなのか?と多少の疑問を残しながらもそう解釈
して、市丸はしがみつく一護の身体をそっと横たえた。


が───。暦が変わってから、今度は組全体がおかしな状況になってしまった。


「組長!すんません、これなんですけど…」
「市丸組長、どうしてもと向こうさんが…」
「はぁ!?何言うてんの。こんなんボクがわざわざ出る事やあれへんやろ」
「「「いえ!ここはぜひ、組長のお力でっ!!!!」」」
「お前ら、どないした言うねん…」

訝しがる市丸を余所に、何のかんのと理由を付けて普段は自分達で処理できる案件まで、殊更市丸を担ぎ出すよう
になってしまったのだ。
ここ市丸組に集う面々は、少人数ながらも市丸自身が選び抜いた精鋭達で占められている。
極道の世界に於いて、自分達の勢力を他へ伸ばそうとすれば、必ず大規模な抗争が起こる。
元々『市丸一家』の拠点は関西一円で、東京を含む東に至ってはまだまだ他勢力が強い。大なり小なりの組が乱立
し、その利権を争っているというのが現状だ。ただ、『市丸一家』の場合、今現在トップに立っている市丸の曾祖父が
元々関東の人間だった為、関西が拠点だと云いながらも実質昔ながらの傘下の組は多い。それを一つに纏め上げ、東に於いての確固たる基盤を作る事──。それが、市丸の課せられた仕事だった。
だが、だからといってその傘下の組が『市丸』に反旗を翻しているという訳でもなく、実情は次代を継ぐ市丸の才覚を
他の組に知らしめる為の進出の様なものだった。
しかし、そうは言っても何があるのか分からないのがこの世界だ。ほんの少しの油断が命取りになる事はこの世界の人間なら骨身に染みている。市丸が本家から便宜上『市丸組』として独立した時、地の利のない土地でも最大限対処できるようにと若手中心に選び出したのが、今ある面子だった。
いつ何時何があるか分からないにせよ、取り合えずは今、表向きは平穏な状態だ。
よって今現在、組の長である市丸自身が動く案件などほぼ無いと云っても過言ではない。
元々余程で無い限り、どんな組においても組長自らが動くことなどほとんど無い。
なのに───。なぜか、この所急に市丸の元へと持ち込まれる案件が急激に増えていた。
普段は市丸の手を煩わせる事など決してしない面々が挙って市丸を担ぎ出そうとする。
あまりに必死な形相に渋々話を聞けば、別に一つ一つは大した事ではない。
なんで自分が…と当然の文句を言えば、挺身低位で拝み手までしてくる始末。そして、この現状を目の当たりにしている側近のイヅルですら、こんな組の状態に荷担している節があるのだ。

「…イヅル…。お前ら何考えてるん」
今日も今日とて無理矢理手渡された報告書を一瞥すると、市丸はしれっとした顔でそれを覗き込んでいるイヅルをじろりと睨み付けた。
「何もありませんよ。ほら、ここの所組長自ら出向く事なんてまるでなかったでしょう。たまにはこうやって表に出て示しを付ける事も必要だと思いますが?」
市丸の不機嫌にあくまでもシレっと言い放つイヅルに、市丸は深いため息を吐く。
絶対に何かある事は確かなのだが、こうと決めたら異常なまでに頑固なイヅルの性格も市丸は良く知っている。
手っ取り早く誰か引っ掴まえて問いただすのが一番早いのだが、当然そんな事は見越したように一人では絶対に組員に近づけない!とばかりにイヅルも一護も交代で市丸の側に貼り付いている。
「ええかげんにしぃや…お前ら…」
「はいはい。お小言は後で聞きますから、取り敢えず出かける準備して下さい」
ブツクサ言う市丸など手慣れた様子で軽くスルーして、イヅルは今日もさくさくと市丸を連れ出しにかかった。


「一護ちゃん…。一体何考えとるの」
「へ…?」
湯上がりの縁側でわざわざ京都から取り寄せた極上のわらび餅を頬張りながら、一護が間の抜けた返事を返した。
「へ、やあらへんやろ。なーんか最近おかしいで?一護ちゃんだけやのうて組全体が変や。
一体なにが……「──なんもねえって!」」
と、市丸の言葉にかなり食い気味に一護が返す。その剣幕に思わず市丸は目を見開いた。
きゅっと唇を真一文字に引き結んで、これ以上聞くな!と言わんばかりの一護の態度に思わず可愛いと思ってしまう。一体何を企んでいるのかは知らないが、これじゃあ何かあると言っているも同然だ。
理由は分からないが、どうやらこの現象は一護が発端なのだと市丸は確信を強める。
「なあ…。一護ちゃん、何かあるならボクに言うて?訳がわからんまんまやったらどないも出来へんやろ?」
一護の頑なな態度を崩すには取り敢えず折れた方が早い。自分が原因なのか他に理由があるかは分からないが、
自分の行動で振り回される人間を目の当たりにして、一護が平気でいられる訳がないと市丸は情に訴えた。
「だから…。別になんでもないって言ってるだろ」
が、作戦も空しく今日の一護はとことん頑固だった。どうして自分の周りにはこうも頑固者ばかりが集まるんだろう…と自分の事はまるっと棚に上げて市丸は心の中で密かに嘆く。
そりゃあ一旦自分が決めた事は何が何でもやり通すくらいの気構えがなくては、極道なんてやってられない。
だが、何も一護までそんな極道の気質を備えてなくてもいいだろうに……。
(まあ…、そんな所も可愛いんやけどな…)
一護の持つ真っ直ぐな精神に惹かれたのも確かだし、それこそが一護の本質だと分かってはいるのだけど…。
(ボクにも言えへん事って何やねん)
生来気の長い方ではない市丸が密かに苛立っているのを感じ取ったのか、一護はじっと市丸に視線を合わせてキュっと唇を噛んだ。
「言えへんかったら、無理矢理言わす方法もあるで…?」
斯くなる上は実力行使だとばかりに言えば、一護はこくりとひとつ唾を飲み込んで市丸を睨み付けた。
「…そんな事するんなら、とーぶんお前とHなんかしねぇからな」
その実力行使が何処で発揮されるか、もちろん一護にも分かっているのだろう。若干顔を赤らめながらも強気な一護に市丸がクスリと笑った。
「何言うてるん。そんなんアカンに決まっとるやろ?それにHお預けで辛いんはボクだけやないし。一護ちゃんかて辛いに…」
『決まっとる』と言う語尾まで言わせずに、市丸の顎目掛けて一護のアッパーが入る。
それを間一髪で交わして一護の腕を掴むと、市丸はそのままダンッと一護の身体を板張りへと押し倒した。
「バカッ!離せっ、ギンっ!このままヤりやがったら、もうお前とは口聞かないからなっ!!」
「口聞かへんて…。どこの子供やねん。あんま聞き分けない事言うてるとボクかてキレるで…?」
ジタバタと暴れる一護を押さえつけながら不穏を滲ませて言う市丸に、一護が負けじと声を張り上げる。
「…ッのっ!子供はどっちだよっ!あーもうっ、マジあったまキタッ!これ以上なんかしやがったら、ホントに嫌いになるからなっ!!!」
「吐くまで実力行使いうんはヤクザの常套句やろ。なぁ…なんでそんな言えへんの?」
「…だから……」
「『なんもない』言うんは、もう通じへんで。ほら、はよ吐き。みんなしてボクに隠れて何してるん」
「だから……」
「なんや」
詰め寄る市丸にやっと吐く気になったのか、一護が視線を泳がせて口ごもる。
だが、次の瞬間一護は思いとどまったように、キッと市丸を睨み上げて思いっきり叫んだ。
「──っ、なんもねぇっつってんだろーーーーがっ!!!!!!」

しんっと静まりかえった屋敷に一護の声が響き渡る。だが、さすがにこのプライベートなこの空間に何事かと乗り込んで来るような人間は一人もいなかった。
二人の喧嘩は数多い訳ではないが、まったく無いという訳でもない。基本どんなに激しい喧嘩でも所詮は痴話喧嘩のレベルなのだという事はこの家の人間なら重々承知している。
下手に口を挟めばとばっちりを受ける事くらい皆嫌という程よく知っていた。

一護の剣幕に、市丸はヤレヤレと言うようにため息を吐いて、一護とは対照的に静かなトーンで言い聞かせるように言う。
「さよか…。まあ、今日はええわ…。一護も言い出したら意固地やし。せやけど、これだけは覚えとき。
このまんまの状態が続くんなら、ボク何がなんでも聞き出すで?──ここやボクの組や。今の状態がおかしい言うんがわかってて何時までも野放しになんかせぇへんよ。別に聞き出すんは一護やのうて他のモンでもかめへんのやし。
一護が直接言う方が何倍もマシやで。それ…わかってるやろな?」
一護を押さえつけたまま組の長の顔で静かに話す市丸は、さすがの一護でも怖いと思う。
だが、どうしてもこれだけは引けないのだ。本当に…、本当に市丸が思っている程大した理由ではないにせよ。
「おま…っ!他の奴らには手ぇ出すなよっ!?」
怖いと感じながらも、精一杯虚勢を張る一護に市丸が薄青い瞳で見つめ返してさらりと言う。
「そんなん、一護次第や」
市丸の言葉に、ぐっと喉を鳴らしながら一護も市丸を見つめ返す。
その強い瞳に、市丸は仕方ないと取り敢えず今日は引く事にした。
こうなったら一護は何を言っても、何をしても決して口を割らないだろう。それでも無理矢理言わせる方法がない訳ではないのだが、それをすれば今度は一護が完全に臍を曲げてしまう。
一体いつから自分はこうも臆病になってしまったのだろう。
一護に詰め寄りながらも、一護の気持ちが自分から離れていってしまうかも知れないという事が恐ろしい。
今まで、恐怖など感じた事はなかった。
それが、たった一人、一護の気持ちの行方だけがこうも恐ろしく感じてしまう。
「……ごめん……ギン」
市丸の瞳を静かに見返して一護がポツリと言う。
「心配させて…ごめんな…。でも、本当に大した事じゃないから…」
トレードマークの眉間の皺を少し濃くして、一護が済まなさそうに言う。
そんな顔をしてまでも一体何を隠しているのか。それも、組全体──誰よりも組の規律を重んじるイヅルまでもを巻き込んで。
「ちゃんと…話してくれるんやろ…?」
市丸がそう問えば。一護は、小さな声で、「もう少しだけ待って…」と返した。



「あーもうっ!あのクソ爺までもかいっ!」
乱暴に携帯を切ると、市丸がすかさず悪態を吐いた。
当然通話は切れているので、その声が相手に届くことはない。
それを横目で見ながら一護とイヅルは呆れたようにそれぞれボソリと呟いた。
「ギン…。それ空しいだけだって…」
「直接言えば倍返しですから仕方ないですけど…。情けない光景ですよね…」
「煩いでっ!イヅルッ!お前知ってたんやろっ」
聞こえよがしの呟きをしっかりと拾った市丸が今度はイヅルに矛先を向ける。
それに、イヅルはいくらでも怒れというようにしゃあしゃあと返した。
「ええ。昨日御大から連絡を受けましたので。どうせ昨日の時点で言えば、何のかんのと理由をつけて逃げ回るでしょう?貴方は。──兎も角、御大からの御命令は絶対ですからね!
今日こそは叔父貴の所に顔出して貰いますから。よろしいですね!?」
「ええ〜。ボクあのオッサン苦手やねん。なんで今の時期に爺さんの名代で会わなアカンの…」
「それが三代目としての務めだからです!」
これ以上の文句は聞かないと言うようにイヅルがバッサリと切り捨てて一護に目配せする。
それにすかさず一護が市丸の腕を取って、貼り付いたソファから引き剥がした。
「ほら、ギン!とっとと行ってさっさと帰ってくればいいだろ?ここでゴネたって一緒なんだから、さっさと腰上げろ!」
「そんな事言うたかて、あのオッサン話長いねんもん。あ〜もう、面倒くさっ!せやイヅル、ここはボクの名代でお前が行けや」
「──いい加減にしろっ!面倒だったらチャキチャキ躱せ!爺さんの名代だってんなら恥ずかしい事すんなっ!」
あくまでゴネようとする市丸の頭をスパーンと叩いて一護が怒鳴る。
それにイタタ…と頭を押さえて市丸が恨めしそうな目を向けた。
「なんやの…もう…。どーでもええ出事が続いたかと思えば今度は名代かいな…。そんなにボクがこの家居るんが嫌なん!?」
恨めし気に言う市丸の言葉に、一護は何とでも言えというようにふふんと返す。
「古今東西、亭主は元気で留守がいいって決まってんだよ。昔流行語にもなったんだろ?分かったらとっとと支度しろ、オラ!」
「…ホンマしっかり奥さんになりおってから…」
グイグイと市丸の腕を引いて、支度の為に自室に向かおうとする一護にボソリと呟いて、市丸は漸く観念したように重い腰を上げた。



「──あれ…?イヅル、道違わへん?」
先代の兄弟分──。関東の市丸一家の大老とも言える老人のご機嫌伺いと云う名の長々とした説教から漸く解放されて、一刻も早く一護の身体を抱きしめて癒されたいと思う市丸を余所に、車は屋敷とは別方向へと走っていた。
「ああ…。済みません。もう一ヶ所寄る所があるので…もう少し辛抱なさって下さい」
済まなさそうな口調とは裏腹に、この後に及んでイヅルはまだ市丸を引っ張り回すつもりらしい。
ただでさえこの所の不可解な現状と、駄目押しとも取れる今日の会合で、イライラが頂点に達していた市丸は、そんなイヅルをキッパリと無視して運転手に声を掛けた。
「もう、今日は仕舞や。早よ戻り」
今にも爆発しそうな市丸の怒りに、直接命じられた運転手は、救いを求めるように助手席のイヅルをそっと伺った。
その頼りなげな様子にイヅルは人知れず肩を落とす。
結局、市丸を諫めるのは自分しかないのだ。市丸が本気で怒ればこの自分ですら止める事は敵わない。
だが、今回は一護達っての頼みなのだ。そしてそれは──市丸自身が本当に望んでいる事へと繋がっている。
ここは市丸がどんなに怒り狂おうとも、絶対に譲る訳にはいかないとイヅルはグッと下腹に力を込めた。
「市丸様…。お願いですから、もう少しだけ我慢して下さい。これは…一護くんから頼まれた事でもあるんです」
今ネタばらしをする訳にはいかないが、そろそろ市丸の限界も近いだろうとイヅルはここで切り札を出した。
「なんやて…?どういう事や、イヅル」
事情を知らない市丸から当然の答えが返る。だが、それに対してイヅルは後部座席の市丸にしっかりと視線を合わせてキッパリと言い切った。
「市丸様が苛つく気持ちも良く分かります。ですが…ここは何も言わずに、取り敢えず大人しくしていて下さい。
後少しで…着きますから…」
「ホンマ…何やの、一体……」
イヅルの様子に少しは怒りの矛が収まったのか、市丸が半ば投げやりに言う。
人の裏を掻き、常に常人の何十歩先を見通してきた市丸にとって今のこの状況はさぞかし神経に障る事なのだろう。だが、それが痛いほど分かっていながらも、あの一護の可愛い願いだけはどうしても叶えてやりたいとイヅルは思う。後、小一時間もすれば、きっと市丸だとて納得が行く筈なのだ。
それまでは──。どんなに叱咤されようともこの状況だけは譲れないとイヅルは市丸の冷たい眼差しをしっかりと見据えていた。

「──しゃあない…。分かった。もう好きにすればええ。どうせ何言うてもお前引かへんのやろ…」
諦めと共にそう吐く市丸に、イヅルは内心ホッと胸を撫で下ろす。
そして、改めて市丸を労うように声を掛けた。
「済みません…。でも、あと少しで全て分かりますから…」
思いっきり含みを持たせて詫びを入れるイヅルに、市丸は若干乗り出していた身を再びシートに沈めた。
もう、ここまで来たらジタバタしたって始まらない。後少しで全てが分かるとイヅルが言うなら本当にそうなのだろう。
自分を余所に皆して一体何を企んでいるのか未だに想像が付かないが、一護が言い出した事でこうまでイヅルや組の連中までもが協力的になると言う事は、それなりに一護にとっては重要な事なのだろう。
最初は市丸の相手が男だと知った時点で強固に反対していたイヅルが、何をどう納得したのかいつの間にか一護に対して市丸と張り合うくらいに肩入れするようになった。尤もそれが恋愛感情ではなく、あくまで市丸の伴侶として一護を迎え入れるという態度を徹底していただけに、市丸もイヅルが一護に対してあれこれ世話を焼くのを容認してきていた。
本当に──一護だけは侮れないと市丸はつくづく思う。
あのお披露目の席で、僅か数時間の内に一護はあの場に居合わせた人間全てを悉く魅了していったのだ。
組長となってから日は浅いとはいえ、極道としての経験も実力も百戦錬磨の強者達が挙って一護に魅せられる。
この自分すらも、落とすつもりがいつの間にか一護にどっぷりと嵌っている。
素直で一本気な一護の性質───。
闇の世界に身を置く者が永遠に憧れる光──。
その太陽の様な暖かな心でこの闇の世界に身を置いた一護に、誰もが庇護欲を掻き立てられる。
決して一護だけは穢すまいと。暗闇の中で一条の光に縋るように、その温かな光に誰もが救いを求める。
いつか──あの、この世の理を全て見透かしたような曾祖父の言葉を思い出す。
この『市丸』にとって、一護は唯一絶対の護神になるだろうと──。
あの、無垢で真っ直ぐな一護の為に、全ての人間がその身を挺し果ては命すら投げ出すだろうと言った一言は、決して過言ではないだろうと市丸も思う。
一護を組に迎え入れた時には、若干戸惑っていた組員達も今では組長である市丸を差し置いて一護を立てる始末だ。尤も、それが組にとっての理想なのだという事は市丸も十分承知の上なので、今の現状に市丸自身は特に異論はない。護るものがあってこそ──支える基盤があってこそ極道としての意識は高まる。
市丸の伴侶として身を置きながら、そしてそれを支える人間に慈愛ともいえる愛情を向けながらも、一護は決して闇の世界に染まる事はない。その絶妙なバランスが世間を捨てた極道にとって『護るべきもの』としてのたった一つの光──寄る辺となりうるのだ。
愛しくて愛しくて──たまらない存在。
たった一人の人間に、ここまで自分が溺れるなどとは思っても見なかった。
男でも女でも──。自分に言い寄る人間など、数限りなく居た。
その中から、気まぐれに抱き、側に置き、そして、何の前触れもなく飽きると捨てた。
そしてそれは相手も半ば承知しての付き合いだった。自分にとってその相手は、恋愛ではなく単なる性欲を吐き出すための道具に過ぎない。さすがにそこまであからさまにはしなかったが、市丸が本気で人を愛せない性質だという事はその中の誰もが分かっていた。まあ……中には、自分こそは…と勘違いする輩もいることは居たのだが…。
今、こうして思い返してみれば、自分は恋愛というものは一つもしたことなどないのだと思い知る。
生まれて初めて──他人に興味を持った。
もっと知りたい。もっと話したい。もっと…、もっと……身体も…その心も…すべて自分一色に塗り替えてしまいたい。
狂おしい程の欲望があの時の自分には渦巻いていた。
そしてそれは──。今も止む事なく続いている。一護を手に入れた今でも、尚───。

一護に出会ってようやく、自分の生きてきた世界が色のない灰色だという事を知った。
あの鮮やかな夕焼けのような髪と、温かな太陽の様な笑みを目の当たりにして、初めて自分の世界に色が無い事を知ったのだ。
そしてもう…。今更知らない頃には戻れない。一護の為ならば、何を捨てても惜しくはない。
一護が望むのなら……。それが何であれ、全て叶えてやりたいと思う。
今回の一連の出来事には、確かに苛ついている。自分の知らない間に様変わりした組員の様子も、肝心の一護の様子も──。だが、きっと一護が仕掛けたというのなら、何らかの理由があっての事なのだろう。
あの子は決して自分に──愛する男に不利になる事はしない。それをするくらいなら、自分が苦しんだ方がマシだと思う子だ。そして、それに荷担したイヅルに対しても…。この組に対して悪影響を及ぼす事は絶対にしないだろうという確かな信頼を市丸は持っていた。


「──市丸様。着きましたよ」
聞き慣れたイヅルの声にふっと市丸の意識が上がった。色々と考え込む内にどうやら眠っていたらしい。
その声に、ふと周りを見渡すと、一面コンクリートで固められた駐車場のようだった。
まだぼんやりとした意識で、ここがどこだか記憶を探る。
「……イヅル……、ここ……」
まだ、半分飛びそうな意識を掻き集めて、市丸はようやくここが何処だが思い当たった。
「──着きましたよ。降りて下さい」
そう言ってイヅルが素早く車から降り立ち、後部座席のドアを開ける。
それに促されるように車外に降り立った市丸が、どういう事だというようにイヅルを見下ろした。
「──お部屋で一護くんがお待ちですよ。……これから3日間は一切仕事を入れてませんから、どうぞゆっくりなさって下さい」
「……どういう…事や…。イヅル」
イヅルの言葉に、どこか惚けたように市丸が言う。ここは──市丸の持つマンションの地下駐車場だった。
そして、その部屋は──。一護を初めて抱いた──お互いの想いを確認しあった場所だった。
「だから…。私が此処で話してもいいんですか?どうせなら一護くんから直接聞いて下さい。ほら、早く行って。
一護くん、今日は朝から準備してたんですから」
「…準備…?何の準備や」
まだ、上手く目が覚めていないのかも知れない。語るイヅルの声が何処か遠くで聞こえる。
言っている意味は理解できるのだが、どこか思考が追いついていかない。
そんな、どことなくぼぅっとした市丸に業を煮やしたのか、イヅルは強引に市丸の背を押して、直通のエレベーターに押し込んだ。
「市丸様…。どうか、一護くんを怒らないでやって下さい。彼は──本当に貴方の事しか考えてないんですから」
エレベーターのドアが閉まる間際にそう言ったイヅルの言葉を、まだどこかぼんやりと聞きながら、市丸は昇ってゆくエレベーターの感覚に身を任せた。


チンッ、と軽い音を立てて扉が開く。
目の前の廊下に機械的に足を進めて、市丸はすぐ目の前にあるドアをじっと見つめていた。
と、何の前触れもなくカチリとドアが開き、一護が満身の笑みで市丸を出迎えた。
「おかえり、ギン。ほら、早く中入れよ」
「…ああ…。──ただいま」
今ひとつ状況が掴めずに首を傾げる市丸を、早くと腕を取って部屋へと促す。
「イヅルさんから今着いたってメール貰ってさ。モニター見てたらお前ドアの前で突っ立ってるんだもん。
鍵がなきゃチャイムくらい鳴らせよ」
そう言いながら廊下を突っ切り、リビングの扉を開けると一護はそのまま隣のダイニングスペースへと足を運んだ。
そこには、テーブルの上に所狭しと並べられた料理──そして、その中央には…。
「一護ちゃん…これ…」
「…うん」
呆然とする市丸を見上げて、一護が可愛く頷く。
そして。

「誕生日おめでとう、ギン。これからも…よろしくな」


「一護ちゃん…」
にっこりと笑ってそう言った一護に、市丸は驚きで目を見開く。
目の前に鎮座する数々の料理と、真っ白な生クリームの上に綺麗に飾られた赤い苺のケーキ。
それを呆然と見つめて、一護へと視線を落とすと、一護は若干顔を赤らめてそそくさとテーブルに付いた。
「ほら、早く座れって。料理冷めちまうだろ」
「ああ…うん…」
一護に促される形で向かいの椅子に腰を下ろした市丸に向かって、一護は一つ咳払いをすると再び口を開いた。
「じゃあ…えっと…。食う前に定番のコレな。ちょっと恥ずかしいけど…笑うなよ?」
そう言って一護はケーキの上に立てられたロウソクに火を灯すと、手元のリモコンで明かりを消した。
「それじゃあ……」
すうっと息を吸い込んで、次の瞬間一護の口から心地よい音が滑り出る。
定番中の定番──バースディ・ソング──。

それを聞きながら、漸く市丸の頭が巡り始める。
あの一連の出来事はこの為だったのだ。
プロ顔負けに料理もケーキも綺麗に盛りつけされているが、おそらくこれはすべて一護の手作りなのだろう。
短い歌が終わり、仄かな明かりの中で一護が照れたように笑う。
「ほら、ギン。ロウソク消して」
「ん、──ほな」
ふぅっと一息で揺らめく炎を消してしまうと、パチパチと一護から拍手が贈られる。
この年になって、誕生会の真似事とは些か気恥ずかしいものがあるが、再び付けられた照明に一護の笑顔を見て、
市丸はなんだか微笑ましい気持ちになった。
「おめでとう、ギン」
「ありがとぅ、一護ちゃん」
「おう。じゃあ食うか。用意してくるからちょっと待ってな。あ、ケーキは冷蔵しとくから後で食べような」
そう言って慌ただしくキッチンに立つ後ろ姿を見ながら、さて、この大量の料理を心して食わねば…と市丸は心の中で若干の決心を固めていた。


「これ、一護ちゃんが全部作ったん?」
目の前に置かれた大量の唐揚げを一つ摘んで市丸が一護に尋ねると、一護はこくんと頷いてから心配そうに市丸の顔を覗き込んだ。
「……マズイ……?」
「いいや、めっちゃ上手いで。でもコレ家のと味違わへん?
前に…一護ちゃんから作ってもろうたのとも若干違うような…」
「うん…。それ、実はウチのお袋の味なんだ」
「へ?」
一護の言葉に市丸が首を傾げる。確か一護の母親は一護がまだ小学生の頃に亡くなっていたはずだった。
「ほらさ…俺、一応料理はできるけど、なんていうか…自分で食うだけの料理だったから、ちゃんと習った事ねぇんだ。で、何とかお袋の味再現できないかって、料理番の馬場さんに相談して…」
「…それで料理習うてたんや…」
「うん…」
話ながらも次々と運ばれてくる料理を平らげながら市丸がそう問うと、一護は恥ずかしそうにこっくりと頷いた。
「もしかして、ボクを家に居らせんようにしてたん、この為?」
「ん…。ごめんな、ギン。お前を喜ばせるつもりが、逆に嫌な思いさせちまって…。でも…当日までどうしても内緒にしてたかったんだ」
「んで、あいつらも一口乗ったんか…」
個々に案件を持ってきては、済まないと言いながらもどこか喜々としていた組員達を思い出す。
「うん…。ギンはさ、組長だから…いつも外に出る訳じゃないだろ?で…どうしようって言ったら、『じゃあ連れだしちゃえ』って事になってさ…。でも、さすがに最後の方はギンもキレ始めてるし、マズイだろって話になって…」
「やっぱりジジイもグルやったんか」
ヤレヤレとため息を落としながら市丸が言うと、一護は悪戯がバレて怒られる子供の様にシュンとした顔になった。
「どうしても…今日だけは外に出てて欲しくて…。でも、これ以上あいつらに迷惑掛けれないから…。そしたら、イヅルさんが…爺さんに連絡取ったらって…」
一護から連絡を貰って喜々としている老翁の顔が脳裏に浮かぶ。あの老獪な爺がまるで自分の本当の孫のように一護を可愛がっているのは誰の目にも明らかだ。その一護の頼みに二つ返事で首を振っただろうと言うことは考えなくても分かってしまう。
(…にしても、なんでわざわざあの説教垂れんトコに行かすねん。あのクソジジイ…完全な嫌がらせやろ!)
今頃、遠い京の都の山奥でほくそ笑んでいるだろう姿に市丸は思わず眉根を寄せる。
と、その表情を見た一護が益々小さくなった。
「本当に…ごめん、ギン。なんか俺…一人ではしゃいじまって…。ギンの事考えてたつもりだったのに、嫌な思いさせちまって…。本当にごめんな…」
しゅんと頭を垂れる一護に、市丸の手が伸びる。
柔らかいオレンジの髪をくしゃりと撫でて一護の顔を上向かせると、もう片方の手で頬杖を付きながら優しく笑った。
色々振り回された感はあるが、こうして一護が自分の為に必死で料理を習い、この日の為に準備していてくれた事を
考えると微笑ましく感じてしまう。
誕生日など──今まで嬉しいなんて感じた事などなかったのに…。
自分がこの世にある事を、今では誰よりも喜んでくれる人間がいる。
それだけで──、十分過ぎるほどの贈り物だと思う。
「ええよ。まあ、状況分からんでイライラした事も確かやけど、でも一護ちゃんがボクん為に一生懸命やってくれた事やろ?確かに、毎日ボクが引っ付いてたら何もでけんし…。それに、ボク今めっちゃ嬉しいねんで?」
「……ギン……」
「なあ、リビングいこ?残った料理は明日食べればええやん。それよりあのケーキ食べたいわ。あれも一護ちゃんの手作りなんやろ?」
市丸の言葉に少しホッとしたのか、一護が小さく笑う。
「うん。お前甘すぎるのダメだから…ちょっと、苦労した」
そう言って笑う一護の顔は、殊の外可愛くて。
せっかく作ってくれた苺のケーキよりも、目の前の一護を食べたいなぁと市丸は笑い返した。


そして、3日後───。

足腰立たなくなった一護が、市丸に抱きかかえられて帰宅したのは言うまでもない──。




※ギン誕生日小話。今回は『天上の華』Vrです。
ほら、なんかウチで一番誕生日なんて縁の無さそうな人だったから、つい…。
たぶん物質的なプレゼントやら何やらは恵まれてるんだろうけど、
精神的には一護が居て初めて…みたいなv
間のHシーンは裏で(笑) 
ただ今猛烈執筆中でございます。